最期に聞いてみたいです
僕は男性しか愛することができません。
幼稚園の頃から好きな人は男の人でした。
恋愛ができないということも辛いですが、本当の自分を話せない、話したところで理解をされない、だから人との関係を築けない、それが一番辛いです。
これだけ辛い思いをしてまで生きる意味があるのかとずっと思っていました。
中学生ぐらいの頃、母に死にたいと言ったことがあります。
そしたら、今はそう思っても10年後、20年後はわからないでしょう?楽しい未来が待っているかもしれないよと言われました。
その時から10数年間頑張って生きてはみたけれど、年々辛いと感じるばかりで、幸せが待っているとはどうしても思えません。
あの時に死んでおけばこれだけ長いこと苦しむこともなかったのになと思います。
この世界に生まれて良かったと思えたことは一度もないけれど、それでも母だけは好きだったので、悲しませたくないといままで自殺ができないでいました。
自分が死んだら悲しむ人がいるというのは、素敵なことかもしれないですが、だから死んではいけないとずっと神様に人質を取られているような気分でした。
でも、最近はもうそれさえもどうでも良いかと思います。
母を悲しませることになっても楽になりたい。もう何も考えたくない。
自分の幸せになれるかもしれない道は全て試せたように思います。
もう全てを諦める覚悟ができました。
それでも最期に聞いてみたいのは、人が生まれて死ぬということには意味なんてあったのだろうかということです。
魂の修行みたいな話を聞いたりしますが、この世の中汚いものばかりな気がします。こんな世界にいなければもっと清らかに人にも優しくできたように思えます。心を汚して、心を殺して、自分に嘘をつかなければ生きてなんていけませんでした。
人が生きる意味ってなんだったんでしょうか?
人が死ぬことや生まれることに何か1つでも意味があったのでしょうか?
最期にご意見を伺ってみたいです。
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「お釈迦様も同じでした」
お釈迦様のお話はご存知でしょうか?
今のあなたと同じように、
「どうしてこの世は苦しみに満ちているのだろう…」
「生きる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死を恐れる苦しみ…この苦しみを解決する方法はないのだろうか?」
と、その答えを求めて、ある日突然"修行者"となりました。
王子である地位も、親も妻子も捨てて…
何とも自分勝手なヒドイ話です。
しかし、お釈迦様は"ヒドイ人"では終わりませんでした。
その問題を見事解決なさったのです。
しかも、手引き書もなく自力で…
お釈迦様は"スゴイ人"になりました。
しかし、お釈迦様は"スゴイ人"でも終わりませんでした。
その問題解決の方法を、同じように苦しみ悩む人たちにも説き示し、多くの方を苦悩からお救いになったのです。
お釈迦様は、"アリガタイ人"になったのです。
先人たちは、その解決方法を『お経』と言う手引き書にまとめて伝え残し、『戒律・作法』という具体的な実践方法まで残して下さいました。
ですから私たちは、ただそれらを「学ぶだけ」で済むのです。
冷やかしではなく、あなたのように「本当に救われたい」と思われる方にこそ、仏様の教えを学んで頂きたい…
発心 → 修行 → 菩提 →涅槃
「救われたい」という心を起こし、スタートラインには立ちました。
命を断つほどの強い覚悟があるのならば、今から本気で仏教を学んでみませんか?
私は救われました。
あなたにも「救われた」と実感して頂きたい…
もし、仏様の教えを学んでみたものの「私の話が嘘だった」とお思いになった時は、嘘をついた私が地獄に行く覚悟です。
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追 記
『生きること』の執着の中に、『生きたくない』という執着も含まれます。
つまり、完全に執着を捨てた状態で『生きること』を見つめ直すと、『本来のいのちの役割とは?』という疑問に行き着きます。
端的に言うと、それは「死ぬまで生きること」。
我々のいのちは、そのようにプログラムされて生まれて来ております。
文字数制限で説明不十分でスミマセン…
もし良かったら、私が他の質問者に回答したものをご覧下さい。
もしくは、改めてご質問下さい。
ハスノハがお付き合い致します。
仲間を見つけましょう
人にはいろんな生き方があります。男性が男性を好きになって何も悪くない。ただ出会いが少ないだけ。チャンスさえあれば素敵な恋愛だってできます。地方に居ててチャンスがないなら、思い切って東京に出てみましょう。新宿2丁目あたりには、仲間が出会える場所もたくさんありますよ。
生きている意味は素敵な仲間と出会うこと。そして共に生きていることが楽しくなること。同じ悩みを持つ人と一緒に話してみませんか。そうした中で一生涯付き合える人がでてくるかもしれません。それを知らずに死んでしまうのはあまりにももったいない。
性の多様性が叫ばれる今、かつては家族にも言えずに独りで悩んでいた人が、仲間と出会える場がいろいろとできています。NPOや一部行政も相談窓口を設けています。ネット上には出会いサイトもあるでしょう(危険な場合もあるので慎重に選ばなければならないですが)。何も恋愛対象は異性と限ったわけでない。一歩踏み出してみましょう。
もし、そのような場所が見つけられないなら、私のお寺「性善寺」を訪ねてみて下さい。毎月最終日曜日は縁日で開放しています。いろんな方が集い、交歓しています。
私自身は、パートナーは見つけることはできていませんが、仏教と出会い、性的悩みなんて克服してしまいました。「お釈迦さまと結婚しました」という気持ちです。
質問者からのお礼
このような質問に真剣に回答をして頂き、ありがとうございます。
仏教について何から知っていったら良いのか見当がつかなかったもので、
インターネットで調べられるような話を少し見て感じた程度ではありますが、
心持ちを変え、行動を変えて、苦しみというものを減らすことができそうだとは感じました。
書かれていた内容もとてもその通りだと感じました。
しかし、とても申し訳ないお話ではありますが、生きる必要性を感じることができませんでした。
様々なことへの執着をしないことで苦しむことも少なくなるとは思うのですが、
そうまでして生きる意味というのはどこにあるのでしょうか。
生きるということに対しての執着を捨ててはいけないのでしょうか。
生き辛いとは感じなくなっても、生きていたいとまで感じることができなそうにない感じてしまいました。
理解が足りなくて、そのように感じるだけなのかもしれませんが、率直にそのように感じました。
しかしながら、私のような者の話を聞き、真剣に回答して頂き、本当にありがとうございました。こんな話を聞いて頂いたこと、とても嬉しく思います。