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物事の起こる理由。

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有り難し有り難し 34

今まで、私は前向きに考えるように努力をしてきました。贅沢な生活は出来ませんが、身の丈にあった質素な生活をしてその範囲で幸せだなあと感謝し、喜び過ごしてきました。
しかし、まさかの出来事があり、精神的に不安定になりました。以前に比べて嫌がらせはましになりましたが、嫌がらせは大規模だったので、完璧に嫌がらせが終わった後も以前のようには暮らせれるようにはなりません。
この出来事によって私は平穏な日々が奪われました。
物事の起こる理由はいったい何なのでしょうか?出来れば、数ヶ月前の平穏な日々を取り戻したいです。
またこのような出来事がなく普通に暮らしている周りの友人等が羨ましく思ってしまいます。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

物事が起こるのではない ことが自己のディスプレイに起こるのだ

…という視点を持ってみましょう。
私も昔テレビタッ🔴ルとかいうウソ番組に出て(出演して裏が分かった)坊さん業界に広まる宗教心を破壊する供養ビジネスを批判するサイドで出演して供養ビジネス賛同者たちからブーイング&総スカンのエライコッチャ。ネットであることないこと悪口言われたりでしたが、菩提心という利権を持たない姿勢であると傷つきません。最終的にその矢も功を奏さなくなりました。その供養ビジネスが廃業したからです。それ以来、世の坊主というものは菩提心が生じない限り大半はテラノムスコ&KUZUでしかないこと知り相手にしていません。👼
確かに世界ではあっちゃこっちゃで色んなことが起こっていますが体感できるのはあなたの身心。六感センサーで反応が無ければ起こると言っても現れていないはずです。
その起こった嫌なことも思い出している時だけが「わが身の上@起っている=現れている」のです。
風邪をひいても、忘れている時がある。
咳が出る。のどが苦しい。そういう時だけ意識するものです。
あなたの身心という鏡には今、そのことは思う起ってはいない。
一念という記憶を働かせて過剰に意識することで「起こる」のではなく「現れる」のです。
ですが、それは念。思い。想念。記憶。追憶。追尋。
その脳の作用を「わたし」という意識が金魚すくいのように拾い上げていることをまず自覚されることです。
すくい上げない金魚はだれにもすくい上げられない。
ですが、本当に「救う」のはあなたの心。
心の中の金魚をすくわずに居れるようになりなさい。
するとそれはゴーン被告のようにあなたの心から海外逃亡。ゴーン。GONE。

坐禅真言
「誰のものでもないものを、誰のものでもないままに。」
自己は自己で成仏させるのです。
自己は自己で「すくわないこと」で自己が「救われる」のです。
よし、やってみようという方は当山の善導、禅堂場まで。
人間はこの世に生まれた以上、誰もが善導師なのです。
自分の心を救わずして人生の本当の安らぎは手に入らない。
だから坐禅や仏道というものがある。
自分が自分の心を明らかにして、人生に決着をつけて、病気になろうがバカにされようがいざ死のうがへっちゃらになることこそ人生で手に入れる最高の心、最高の宝です。
降伏一切大魔最勝成就。
一切の心の大魔を降伏せしめ、最勝の心を成就せられんことを。ニャムニャム🐈

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元様
ご回答ありがとうございます。
自分の心を明らかにして、何が起きてもへっちゃらになって、人生が最高だと思えるようになりたいと思います。まだまだそう思えるには時間がかかりそうですが、少しずつ考え方を変えていきたいです。

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