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新型肺炎が怖くて仕方ありません

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有り難し有り難し 10

新型肺炎が国内で広まっているニュースを見て、不安で仕方ありません。

私は観光地の地方都市に住んでおり、通勤電車の中などで多くの中国人観光客を見かけています。
コロナウイルスのキャリアは彼らのごく一部で、差別は良くないと思いながらも、
全国で続々と感染者が現れるにつれ、(私の地元にも現れました)その状況に恐怖心でいっぱいになります。

私は数年前から不安障害を抱えており、特に病気への不安が強いため、
連日の報道に疲れ果て、1月の下旬からろくに眠れず胃の痛い日が続いています。

今回のウイルスの対応については、政府の判断が正しかったとは思えず、
どうしても批判的な意見を言いたくなりますが、
そんな政治家を選んだのは我々国民ですし、政治に無関心だったツケなのだと思っています。

また、人類の今までの歴史を振り返っても、感染症との闘いの連続でした。
現代では科学が発達しているから大丈夫なんて、それこそおこがましいのではないでしょうか。
もしパンデミックが起きれば、先人たちのように受け入れるしかないのだと思います。

…と書きましたが、やっぱり怖くて怖くてたまらず、なかなか受け入れるなんてできません。
うちは幼い娘と2人暮らしですが、なんとか娘だけでも助かって欲しい、
娘には自分しかいないのだから、できれば私も娘が成人するまで生きたい、と思ってしまいます。
生への執着が強すぎるのでしょうか。
どうすればこの恐怖心に打ち勝つことができるでしょうか。
ご意見よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

この上ない明晰性をもって情報より事実優先で防衛。

差別ではありません。
親子であっても夫婦であっても片方がかかったら一時的に別離しなければいけません。そういうのを何でもかんでも差別だから、人権ガーで混同すると正しい防衛ができません。
無知な善意は命を損ないかねません。
差別ではなく安全の為の区別。
いくらお母さんが作ってくれたご飯でもそこに死に至るウィルスが入り込んでいたら食べたら死んじゃいます。
日本人は平和ボケとエセ寛容精神であやまったエセ人道主義を優先してしまい、結果的に死んでしまう道を選択する可能性の高い民族です。
ジブリアニメのトトロだってお母さんは別の所に居ます。別に隔離されているわけではありませんが、病気の時はそれを改善に向かわるためにも、人にもうつさず本人も回復に向かうように身心を導くべきなのです。
余分なネガティブ意味付けを捨てて、冷静に考え、冷静に対応しましょう。
テレビは安心させるための嘘もある。
ネット内では不安をあおるウソもある。
では何が真実か。事実以外は情報だということ。
だから、まずは危険な所には近づかない事。
治療に効果的な療法を採用する、防衛。
インド人が武漢市に居てもかかっていないという現実があり、ウコンがイイのではないかとか、カレーがイイのではないか説もありますが、イワシの頭も信心効果で免疫が上がるかもしれません。
現実に人がどこでどれほど亡くなられているか。
病気というものはかからなければ本人には影響しないとはいえ、問題はかかる可能性のある状況。
「~なのではないか」「~なのではないか」という推測の情報を鵜呑みするのではなく、
「~なのではないか」「~なのではないか」という心理になっているあなた自身の脳内情報の風害を自覚すること。
そして、あらゆる情報から事実に近いことを見極めて、まずは感染の可能性が高まることを防ぐ。
回復改善に向かう方法が見いだされることに気持ちを注いで、心を騒がせたり不安のお池にドボンさせないことです。
死ぬときは死ぬもの。
問題は死ぬのが怖いという思いと死という事実とはことなるということ。
死ぬという人間の善悪を越えた事実と、死にたくない、不安だ、嫌だ、という心の惑病的な作用は別物だということ。
まずは、身の安全と明晰な思考を。
親として子を守るためにこそ、妄想に煽られず、かつ綺麗ごと抜きの防衛心を。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お礼が遅くなり申し訳ありませんでした。
あれから情報収集には気をつけて、身を守って過ごしています。
また感染者が増えてきましたが、以前より冷静になれていると思います。

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