私は狡い人間なのでしょうか
こんにちは、いつも励みにさせていただいております。
相談内容ですが、少し前まで同じくらい大切で好意を持っていた方が2人(以下、識別のためにAさんBさんで説明します)いました。
厳密に言えば今でも御二方とも大切な存在でありますが、どちらかと言えばBさんの方に気持ちが寄っています。
というのはAさんには既に想い人がおり、私が横槍を入れてはいけないと身を引いたからです。
どちらも大切な存在なんだと言っておきながら、Aさんには手が届かないからBさんにしようというような私の考えは、やはり狡いものなのでしょうか。
そんな取っかえ引っ変えしたような気持ちでBさんに想いを伝えることが無礼であるように思えて、恐らくBさんも私に少なからず好意を持ってくれているのに、1歩が踏み出せません。
AさんとBさんは全く面識は無く、私がよくBさんにAさんの話をしている程度です。
Aさんに対して私が好意を持っていたことも、Bさんに追追話すべきでしょうか。
お伝えしたい内容が細々しており申し訳ありません。
ご意見をお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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それも縁
こんばんは。ご相談拝読しました。
ずるくなどないですよ。それもご縁です。
例えば、あなたがラーメンもうどんも蕎麦も好きだとします。お昼に何を食べようかなと考えていた場合に、どれを選択するかというお題で考えてみましょう。
パターンA
たまたま近くにラーメン屋さんとうどん屋さんがあった。前の日にラーメンを食べていたからうどんにした。
パターンB
蕎麦を食べたい気分だったので蕎麦屋を探していたが見つからない。どうしても見つからないので空腹を我慢できず、たまたま見つかったラーメン屋でラーメンを食べた。
パターンC
今日はうどんにしようと心に決めていたが、友人から蕎麦屋に誘われた。断ったがどうしてもと誘われ、会話の中で目的地の蕎麦屋が先日TVで紹介された人気店だと知り、蕎麦もいいかなと思えたので蕎麦にした。
さて、ABCのパターンそれぞれで昼ご飯のメニューを決めたのは完全なる自由意志でしょうか?
そうではありませんね。全部縁です。縁とは条件や環境の意味です。その時々の縁で私たちの気持ちや行動は左右されるのですね。
あなたが今Bさんを選ぶならばBさんを選ぶ縁の中にいたということです。そこに良いも悪いもありません。
これは運命論ではありません。運命論とは最初から最後まで全部決まっているということ。縁はその時々で変かしていきます。完全なる自由意志はなくとも、縁の中であなたが何を思い、何を話し、何を為すかでその後は変わっていくのです。
お付き合いできることがゴールではありません。結ばれてから縁を紡ぎ続けることこそ大変です。
縁を計らい、縁の中で湧いてきたあなたの気持ちを評価する必要はありません。
これもご縁かな?と身を委ねつつ思う様にやってみましょう。
追追話すかどうかはそれこそ結ばれてからご縁の中で考えていけば良いと思いますよ。
質問者からのお礼
このような分かりにくい相談に丁寧に答えて頂き誠にありがとうございます。
好意を持つ相手を変える自分に対して罪の意識がありましたが、見るべきは「ご縁」であったことに気付かされました。
運命論ではない、というご意見に意表をつかれました。常々変化する自分の意思に、惑わされていました。
ここでこの相談を打ち明け、吉武様のご意見に出逢えたこと、心から感謝致します。
次にBさんに会う時、一歩踏み出して気持ちを伝えようと思います。本当にありがとうございました。