信心についての疑問
こんにちは。学生をしています。
よく、他力念仏も自力念仏も「念仏」に違いはないから大丈夫だと言う人がいますが、では念仏すれば誰でも救われることになりませんか?
しかし、救いはあくまでも他力信心ですよね?
他力信心を得れば、弥陀の本願の生起本末にツユチリほどの疑いもなくなるはずなのですが、念仏をしても疑いは消えません。これは、どういうことなのでしょうか?
信心を得ていないということでしょうか?「死」の解決にも至っていません。
HSP気質で生きづらく、人目を気にするあまりすごく不器用な人間です。 しかしデメリットばかりではなく、生きづらいからこそ、生きづらさを解消するために色んな本に手を出しましたし、仏教に出会うことができました。 人生において様々な悩み事があり、お坊さんのご意見やアドバイスをいただきたいと思いました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
【易行難信】
"では念仏すれば誰でも救われることになりませんか?"
はい、そうなります。信じられないでしょう?(笑)
"これは、どういうことなのでしょうか?"
"信心を得ていないということでしょうか?"
信心のひとにおとらじと
疑心自力の行者も
如来大悲の恩を知り
称名念仏はげむべし 『正像末和讃』親鸞
まぁ、まずはとにかく念仏する生活を送ってみなさいな。
"念仏をしても疑いは消えません"
たとえば、正露丸を飲むと腹痛はすぐに治まる。逆に飲まなければ正露丸のあの劇的な効果効能を体感することはない。だからといって、腹の痛くないときに飲んでも正露丸は効果を発揮しないし、やっぱり効果効能は体験できない。念仏の素晴らしさや凄さがわからないのかい?でも、それはそれである意味では健康な証拠であり、大変結構なことなのかもしれないよ。だからといって、正露丸の常備を怠ると、いざ腹痛に見舞われたときに…
なんまんだぶつ 拝
<追記>
【右斯聖教者、為当流大事聖教也。 於無宿善機 、無左右不可許之者也】
真剣に浄土真宗を学ぶ気なら、『歎異抄』ではなく『教行信証』などの親鸞さんの著作に軸足を置いて勉強していったほうがいいよ。『歎異抄』はセンセーショナルな言葉が多くインパクトも抜群だが、言葉や説明が足りないせいで、かなり勘違いしやすく紛らわしい資料だともいえる。当然だ、『歎異抄』は素人向けのご丁寧な解説書ではない。だから、蓮如さんは「無宿善の機にはみだりに見せるな」と書き足して封印したんだ。つまり『歎異抄』は、武道で言うと奥義の秘伝書みたいなものだ。でも、これは別に出し惜しみをしているのではなくて、念仏ビギナー(無宿善の機)が読んでも正確に理解できないどころか何かと間違っちゃうのは必死だから、取り扱いには努々注意せよという事だ。
質問者からのお礼
回答ありがとうございます!
なるほど。念仏をすれば誰でも救われるのですか。たしかに、善人(自力の行者)だろうと悪人(他力の行者)だろうと救うと歎異抄でも書かれていますね。つまりは、他力念仏だろうと自力念仏だろうと念仏に変わりはないのですね。
念仏をしても疑いが消えない、というのは大変驚きましたが、結構当たり前なことですよね。例え自力のはからい(善人)があろうとも、念仏する者を救うと誓われているのですよね。
あなたのおかげでまた少し勉強ができました。ありがとうございます。念仏をもって幸せな人生にしていこうと思います。
南無阿弥陀仏