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私の正論が人を傷つけているようです

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私はよく「お前は正論で人を傷つける」と言われます。
相手が間違った行動をとった。または、その状況において褒められた行動ではないことを相手がした。それを指摘し、本来取るべきであった行動=正論を、相手に示すことになります。すると「お前はその時の人の気持ちを考えられないのか」と言われます。
気持ちとはつまり、感情や衝動を指すと、お考えいただいて大丈夫です。
けれど私はそれに対して「気持ちがわからないわけではない。それでもあなたが自制できなかった結果、悪い方向に向かった。それは変えられない事実だろう。あなたが結果に対する責任を負うべきであることも変わらない。『では今後どうして行こうか』と考えるにあたり、一度私が正しいルートを示すことはただ同情するだけよりよほど建設的だと思うが」と言います。そこに馬鹿だの阿呆だのの罵詈雑言は含まれません。
私は「感情的意見を重視しない」という点においての、現実主義が過ぎるのでしょうか。たとえば「恋人の浮気が心配でLINE覗いちゃった」など聞こうものなら「プライバシーの侵害甚だしいな」と言ってしまう人間です。
このような性格、といいますか、考え方は直すべきものなのですか。私は「損」をしているのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人間は矛盾してこそ人間

こんにちは、初めまして。

私は、あなたの冷静さがとても宜しいと思います。
ただ、ご自身で気になっておられるように、「損」(世渡りとして)かどうかという点では確かに「損」だと思います。共感を得やすい人ほど人間同士の縁が深まり、仕事関係やプライベートなどで有利、得になることは多いでしょう。共感が得られないと一線を置かれ、どちらかというと冷たい人のように思われるでしょう。

今回のケースで、あなたは「相手が間違った行動」ことに対して指摘したのですよね。では、あなた自身が指摘されることはありますか。自分で思うところの、「正論」「建設的」にそぐわない行為や発言をしたことはありませんか。そんな時に、感情は全く動かないということなのでしょうか。

人間は「正論」「建設的」でない部分があるからこそ、人間なのだと思います。

「ロストエモーション」というSF映画があります。滅亡の危機に瀕した人類は、将来戦争を起こさないために、一切の感情を起こさないように遺伝子操作することによって平穏を保ち続ける、という社会を描いています。しかし、その中にあっても、愛したり、喜んだりする感情の萌芽が少しづつ芽生えてきて・・・、という筋です。もし、あなたの言われるとおり、「正論」と「建設的」を突き詰めていった末にこんな社会が実現したらどうでしょう。それは、人間として生きている、と言えるでしょうか。

人間は矛盾していますが、感情的、刹那的があるから問題を起こしますが、逆に問題を起こす存在だからこそ人間だといえます。その人間というものの本質を、自分もそういう部分があるな・・・と共感してければ、他者と深く理解しあえるのではないでしょうか。それは、損得という目先の問題ではなく、人間というものの根幹をどう見ていくか、そして他者と関わっていくかという人間観の問題だと思います。

ご参考になれば。

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おきもち

釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...
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質問者からのお礼

悠水和尚様。ご回答ありがとうございました。お話しを受けて大きなことに気付けたので、長文で大変恐れ入りますがお目通しいただけますと幸いです(こちらへのお返事は結構です)。

拝読した時に、ご回答そのものへの違和感などではなく「矛盾」という言葉が、まるで魚の小骨のようにひっかかりました。決してご回答が不快だったわけでも、辛かったわけでもありません。小さな違和感です。けれどそれがどこから生じているのか、すぐに探し出せませんでした。
何かヒントはあるだろうか、と他の問答を拝見しましたがスッキリはせず……そこにふと、SALLiaさんのコラム「私たちは今、『人』と言えるか?」という、まさしく禅問答たるタイトルに興味を惹かれました。同時に「右京よ、お前は自分が今『人だ』と言えるか?」と問われているようでした。
そして私は、「冷静な人である」と思っていたあの時の自分が、本当は畜生に成り下がっていたのだと気付かされました。そこで、小骨が刺さっている場所もわかりました。「私の矛盾」に気付き、今はただ慚愧に頭を抱えております。穴があったら入りたい…いや、もう自分で掘って自分で埋まる…。

あの時の冷静な私は「感情的に行動したあなたは悪い結果を残した。一度自分を冷静に見るために、あなたが取るべきであった行動を見てみようじゃないか」と相手に言っています。
けれどそこには、「なだめる」「さとす」それだけの意図のみ……ではなかったのです。むしろそれは私の「感情」を覆い隠すためのものだったのです、それも無意識にです。

「少し考えればわかることだろう」
「なぜ今は仕方がないと割り切ることができないのか」
「私の言っていることは正しい。なのにどうして突っかかるのか」
「この人の意識が低いからだろう」
「情けない人だ、恥ずかしい人だ」
「私はこうなりたくないから、我が身可愛さだけで行動しないことにしよう」

……赤裸々に洗い出してみましたが、何とも傲慢もいいとこです。
「『私はこんなことをする人間とは違う』という考えもまた、『無慚愧』に該当すると私は解釈しています」というSALLiaさんのお言葉に、「はいまったくもってその通りでございますこの私です!」と諸手で主張しなければいけません…。
悠水和尚様に「『正論』『建設的』でない行動をしたことはありませんか?(=あなたにも矛盾はありませんか?)」と問われた時、私は「全くとは言わないがほとんどない」と思いました。これまでの私は「あなたの気持ちは容易に想像できる。だがあらゆる条件を考慮し一歩引いて考えた時、どれを選択するのが損失をより少なくできるかを考えるべきではないか(合理性重視)」という思考を続けてきました。
その「合理性重視」を思考する裏側で「私はこんな人間とは違う(優越感)」という感情がエンジンとなり稼働している。それがあの時の本当の私だったのだと気付きました。

悠水和尚様は最後に「その人間というものの本質を、自分もそういう部分があるな…と共感してければ、他者と深く理解しあえる」と仰ってます。小骨がひっかかっていた時には「?」状態だったのですが、私の奥底の感情に気付けた今では「本当にそうですね」と深く頷けています。
悠水和尚様はどこまで「お見通し」でいらっしゃったのでしょう(笑) 恥ずかしくて穴に埋まりたい気持ちは変わりませんが、とても頼れるご回答に笑顔も浮かんでまいりました。「有り難し」も多く頂いているので、私だけでなく他のユーザーさんにも響く素敵なお話をしていただけたと、大変感謝しております。ありがとうございました。どうぞ悠水和尚様も、ご自愛くださいませ。

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