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『見える』人の見分け方

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有り難し有り難し 32

力の強い霊能者の方だと『人を見ると、その人のプライベートなこと、秘密や、家族、友人、恋人との関係や、その人が朝食べたもの、夜の営みまで見えてしまう。スクリーンに映るように見える』という方がいらっしゃるそうです。

私も一度出会ったことがあり、その方には私が隠していることや秘密にしていたことまで全て言い当てられてしまいました。

一方で、『見える』と言いながら何も見えていなさそうな占い師にも出会ったことがあります。
このような『見える見える詐欺』に会わないために、見える人と嘘つきを見分けるコツなどが知りたいです。ご存知でしたら教えてください。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

見えることが重要ですか?

ご質問拝読いたしました。
見えることが重要なんでしょうか?
あと3秒後に目の前で、
飛び出した子どもが
轢かれるのが見えたとします。
見えるだけでは意味がないのでは、
ないかと思います。
歩道から転んで車道に落ちた子を
身を挺して守ることが
大事なのではと、
愚僧は思います。

身を挺して守るのは、
母親であり、
御先祖さまであり、
神仏なのではないでしょうか?

愚僧を含めて、
坊さんは御縁をいただいた方の、
お幸せを祈っています。
神仏は祈りを受けて、
御加護される。

愚僧にはそうした霊能力は、
微塵もございませんが、
見える方と見えない方と
いう比較は 
あまり意味がないのでは、 
考えます。

占いや霊能力者に依頼されるのは、
人生の指針をいただいて、
より幸せを目指すためだと、
愚僧はおもうのですが、
いかがでしょうか?

相談されて、
気持ちが楽になった。
何となく幸せを感じる、
そうした方を選択されたらと、
思いますがいかがでしょうか?

お幸せを祈っています。

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浄光寺の三浦康昭です。 くよくよと考えてもしかたがありません。明るく前向きに楽しく愉快に生きていくためのヒントを自分自身も考え続けながら、また少しでも皆さんのお役に立てればと考えています。できるだけ、わかりやすく簡単にお答えしていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。現在も整骨院をやっていますが、医療福祉関係の仕事に長年従事してきました。他に、知的障がい者施設の仕事に関わらせていただいています。また、イジメや引きこもりなど子どもたちのために何かできることがないか、現在模索中です。フリースクールをお寺で開講予定しています。仏教特に浄土学は死ぬまで研鑽だと思っていますが、居眠り専門なのが、課題です。

『見える』人がいるのか

『見える』人というのがこの世にはいるのかどうか私にはわかりません。

しかし十中八九それは…いや、千に一つや万に一つくらい希有な人以外は、

『見える』人ではなく「『見える』と『言い張る』人」や「(自分自身で)『見える』と思い込んでいる人」ではないでしょうか。

あるいは「精神の状態(病気や障がい含む)」によって「脳の作用でそうしたものが見える(実際にはないものがその人の脳には映っている)」ということもあるかもしれません。

そして、そうした人に「言い惑わされる人」もまたいるのです。

それは何も特別な事でなく、人間が持つ「弱さ」によるのかもしれません。

特別な何かに惹かれたり、自分の納得でしか物事を考えられないような傾向が私たちにはあるのです。

自分が望む答えと、そうでない自分の現実との差を「見える」人によって埋め合わせすれば、自分は納得できる。
その時に「見える」人の能力が本当かどうかよりも、自分に都合が良い答えに満たされる居心地の良さから人は抜け出せなくなってしまうのでしょう。

ここに、「自称見える人」と「見える人を求める人」が相互補完し合うという悲しいwin winの関係が出来上がってしまうのです。

仏教はそうした夢を見る様な教えではなく、夢から覚める教えです。どこまでも自分の苦という現実が出発点です。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

質問者からのお礼

雲吉さま
お返事ありがとうございます。
見える=未来を予測し自分に有利になるよう動ける=幸せ、という図式がありましたが、確かに3秒後に子供が轢かれる未来が見えたところで自分には何も出来ず絶望するだけと思いました。それなら逆に見えていない方が良いかもしれない位かもです。
確かに見える力は自分にとってプラスの未来だけを見せてくれる訳じゃないし、見えても見えなくてもそれは同じことでした。。
それよりも実際に起きた問題を解決し人生を豊かにする力の方が大切のようです。。
見えなくても自分で自分を幸せにできるよう頑張ります。

吉武文法さま
お返事ありがとうございます。
確かに、『見える(と言い張る)人』『見える(と思い込んでる)人』この2つに加え、『見えると言う人を信じたい人』というのも一定数いると思います。そして私こそがまさにこの『信じたい人』だったんだなと思いました。
私にとって、見えている人、というのは特殊能力のようなものを有した人で、それは人間ではなく神に近い存在だという思い込みがありました。
究極は私は『見える人』たちを通して、人間を超越した神のような存在に相談したかったのだと思います。だからこんなご質問をしたのだと思います。

仏教では『自分の苦しみ』という現実的なところからスタートする、との最後の文ではっとしました。

私が見える人を探していたのは、自分の頭では解決策が思いつかない悩みがあり、それを、神に近い存在に相談することで救われようとしていたんだな、と気づきました。

自分の苦しみから目を逸らさず、神や他人まかせでなく自分で解決しようというスタンスであれば少なくとも『自称見える人』に騙されずに済むな、と気づきました。
ありがとうございます。

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