心の拠り所を教えて下さい。
子供が怪我を負わされ後遺症が残りましたが、加害者からは一切支払いはなく、医療費等を請求しましたが逆ギレして応じません。
警察に被害届を出し、弁護士に依頼する予定ですが、加害者一家をはじめ、この件で関わった学校の先生方や関係者、医師、刑事、弁護士、どの人も不誠実に感じます。
所詮他人事、面倒には関わりたくないのでしょ
うが、最低限仕事を全うすることはしてもよいのではないかと思います。
こんな事に巻き込まれた事自体が辛いのに、ただいたずらに時間だけが経過し、何も進展せずさらに結局やられ損で終わるような気がして焦燥感が募っています。
世の中はなんと理不尽に出来ているのかとつくづく感じてしまい、今まで何度もくじけそうになったり、諦めてしまうことを考えたりしましたが、なんとか自分を奮い立たせこれまで続けてきました。
しかしこれから何を糧に今後を頑張ればよいのか見失ってしまいそうになります。
こんな事の他にも自身の持病が悪化したり、親の介護問題もありいけないと思いながらもどうしても伏し目がちになってしまいます。
これから私はどのような心構えで戦っていくべきか、どんな志を持つべきなのかどうか御指南ください。
わかりづらい文面ですみません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「誰も悪くはないさ、きっとそういうもんさ」
他人を憎んでいる間は、心は幸せを感じられません。
法的な措置はなされればよいでしょう。
しかし、それはあくまで法的なルール上の事務的な戦い(試合)であるべきで、
怒り憎しみを伴う戦争的な争いだと思っては、幸せにはなりません。
世の中は理不尽なのがあたりまえです。
価値観も能力も違う他人が、みんな自分が一番かわいい前提で暮らしているのです。
斉藤和義の昔の歌に「誰も悪くはないさきっとそういうもんさ」というような歌詞がありました。
仏教者としては、この歌詞のような境地を目指すことをお勧めせねばなりません。
野生動物なら互いに殺し会う、一瞬の油断で死ぬのです。
人間社会も弱肉強食。しかし、仏教者は感情的な憎しみを離れ、弱肉強食ゲームを事務的に暮らすべきなのです。
質問者からのお礼
私もそのように思えるようになりたいです。
回答ありがとうございました。