彼等の敵とは
以前ネットで性犯罪のニュース記事に被害者に非があるから性犯罪に遭うのだと言う人たちがいたので、それはセカンドレ○プにあたるのではないかと書き込んだら猛反論を食らったことがありました。
「このフェミニストめ」「お前の方がセカンドレ○プだ」「傷付いた、訴えてやる」「謝れ」「女は感情論でしかものが言えないのか」等々
色々言われました。
自分は今まで性犯罪に限らずですが、ネットやリアル社会の様々な場所で女性を責める男性と、そういった考えに賛同して女性を責める女性をたくさん見てきました。
しかし思うのです。
彼等は何と戦っているのだろうかと。
この人たちのやっていることと、昨今の極端な発言を繰り返すフェミニストたちと何が違うのだろうかと。
自分にはコンプレックスを刺激された男たちと、その後ろ楯に肖ろうとする女たちが、権力者たちに都合の悪いことから目を反らさせるために踊らされている様にしか見えません。
ジェンダーという敏感でナイーブな、誰もが素通り出来ない問題だからこそ利用されていると感じます。
でも渦中の人々にはそれはわからないのです。
お坊様たちはこのことをどの様に考えておられますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
斧とライフル
エビせんさま
なごみ庵の浦上哲也と申します。
以前に性犯罪についてのニュースに意見を書き込んだら猛反論を食らってしまったとのこと、災難でいらっしゃいましたね。
また、社会を見渡すと性犯罪だけではなく、女性を責める男性やその後ろ盾に隠れようとする女性などが見られ、釈然としない思いを抱えていらっしゃるのかと思います。
昔からなのでしょうが、昨今はSNSなどで匿名のまま自分の意見を言えるようになり、その結果 激しい言葉や醜い言葉が飛び交い、また私たちの目にも触れやすくなりました。
他者に関するものを見ているだけでうんざりしてしまいますが、当の本人は深く傷つき、気持ちを病んだり命を絶つ方までいらして、本当に根深い問題だと感じます。
では、ひどい言葉を投げ掛けている側はどうかというと、自分が悪いことをしているとは思っていません。自分の中の「正義感」に突き動かされ、「正しい」行いをしていると思っているのです。「正義は我にあり」と思うからこそ、過激にも残酷にもなれるのでしょう。
仏教は縁起、つまり「原因や条件によって、ものの見え方や捉え方は変わりますよ」と説いていますので、絶対的な正義も悪もありません。状況や角度によって正義だったものが悪にもなり、また逆もありえます。
ですので何かと戦っているように見える彼らは、実は正義感という煩悩に振り回されているのではないでしょうか。
お釈迦さまの語録である『法句経』には「戦場において百万の敵に勝利するよりも、唯一の自己に打ち克つ者こそがまさに最高の勝者である」とあります。
また「人は実に生まれながらに、口中に生じた斧をもっている。人は悪口を言っては、その斧で自分自身を斬る」という言葉もあります。
SNSなど無い時代であれば、悪口を言うには自分の身をさらさなければならず、自分自身が斬られる覚悟も必要だったでしょう。
しかし現代は身を潜めたままそれができてしまいます。さしずめ「人は口中に狙撃銃を持っている」というところでしょうか。
私も様々なニュースや意見を目にして、反射的に斧や銃を取り出しそうになることもあります。けれどお釈迦さまの言葉を思い出して我に返る、その繰り返しです。
願わくは、幻のような煩悩と諍うのではなく、自己に打ち克つ生き方をしたいと思っております。
★お礼拝読
的を射ない回答で申し訳ありませんでした。
質問者からのお礼
浦上 哲也様へ。
お礼が遅れてしまいました。
確かに匿名性は人を凶暴化させてしまいますね。
バレなければよいと思ってる人が多いのでしょう。
ただ…申し訳ないのですが、言いたかったことはそういうことではないんです。
うまく伝わらなかったようです。
すみませんてした。
浦上 哲也へ(追記)
いえ、こちらこそ説明が下手で申し訳ありませんでした。