何も持っていない自分
私は何も持っていません。ほぼ全ての能力が人よりも劣っています。格下の人間です。どんな人も生きていて良いと思いますが、自分となると話は別で、生きていてはいけないような気がします。
私は頭が悪く、運動もできない。手先も不器用、友だちもいない、容姿も良くない、気が弱くて反論できない、人様をすぐに不快にさせてしまう…などなど、言っていけばキリがないのですが、とにかくダメな人間です。いじめられていましたが、正直、私はいじめられて当然の人間ですので、対処することができませんでした。自殺した方が良い人間なのかもしれませんが、怖くて出来ません。親のお金がもったいないので、さっさと死んだ方が絶対に良いのに、出来ません。
すみません。とにかく生きるのが辛くて、吐き出したかったです。本音を言うと死にたくないです。生意気ですみませんが、生きる上でのアドバイスをください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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命の価値を勝手に決めてはいけない
自分に何もないと感じて、生きていてもしょうがないと思ってしまうのですね。生きるのが辛い、でも、本当は生きたいと思っている。あなたの頭は価値がないと思っている。でも身体は生きたいと言っています。どっちが正解なんて私たちが決めてはいけないことでしょう?あなたは何もないといってもここまで頑張って生きてきたそれだけで十分すごい。あなたを生かして来たものがある。そっちの方を信頼してほしい。これが出来なきゃあれが出来なきゃというのは世間の価値観でしょう?何も持っていなくても生きていて良いんです。あなたは何かを持つために生まれたのではない。何者かに成るために生まれてきたのもない。
あなたの考え方は寂しい。あなたは勝つために生まれてきたのではない、負けて一生しょぼくれて生きるために生まれてきたのでもない。勝とうが負けようが生きることを願われているのでしょう。仏様からも願われている。ここまであなたが生きているという事は、ご両親からも、周りの多くの人たちからも願われているのです。願われて、あなたも頑張ってなかったらここまで生きることは出来ませんよ。人間そんな命を思い通りになんてできない。世間の価値観に苦しむあなたは、世間の価値観を超えていのちを大事にしていけるものになって欲しい。
私の先輩の僧侶に目の見えない方がおられました。彼は、小学校から目が見えないから徹底的にいじめられました。死のうとしている時に、あるお坊さんと会って、考え直したそうです。目が見える見えないで人間の価値が決まるわけではない。目が見えないままに自分の人生を生きていこう深くいただいていこうと。そして一昨年60歳で病死するまで生ききりました。最後まで辛いことも沢山あったと思う。けど、彼の生き方を誰が意味ないとか、尊くないと言えますか?
仏様は、何が出来るとか容姿が良いとか悪いとか、地位や身分とかそんなことで人を見なかった。そんなもので人を切ったり命を決める世界は馬鹿らしいと世間を超えて生きた。お釈迦様の弟子には障害者もいたし徹底的に差別された人もいました。仏教を信じたって辛いことも苦しいこともある。でも苦を背負う勇気を頂いていったのです。簡単に自分の頭で決めちゃダメだ。
今空っぽでもいい、これから一滴一滴コップに水をためていくように学べばいい。ゼロならそこから歩むしかないでしょう…またいつでも相談して下さい。
質問者からのお礼
釈義行様
ご回答ありがとうございます。心が軽くなりました。確かに、誰に何を言われても、どんな生き方をしても、本来は良いはずですよね。目の見えない僧侶様の生き方は尊いと思います。
もっと物事を俯瞰して見るように、日頃から心がけます。いつか世間の価値観を超えて、いのちを大切にできる人になりたいです。