悪魔のような心
こんばんは。よろしくお願いいたします。
私は心がぽっかりないような気分になります。寂しくて寂しくて誰か相手をしてくれないかと思ってしまう日と、悪魔のように世界中全てが憎く思える日があります。
悪魔のような日はすぐにイライラして不特定多数の他人にさえ死ねと考えてしまいます。なにもされていなくてもその人が死ぬ想像をしてしまいます。
親友の子が一生寝たきりになればいいとか、考えてしまいます。羨ましいからかもしれませんが小さい頃からそうです。
少しでもイラッとすると一生苦しめと頭のなかで唱えてしまいます。止めたいのにです。
最近はデスノートがあったら私の周りの人はほとんど死んでるんだろうなって考えて、自分に怖くなっています。
頭のなかで人を殺さないためにはどうしたらいいのでしょうか。
さみしくてどうしようもない日は子どものようになってしまいます。物心ついた時から夜は涙が止まらなくて、抱き締めてもらう想像をしてなんとか眠りにつきました。頭の中でちやほやされるのです。でも恥ずかしながら25歳になる今でもそうです。
さみしくてどうしようもない時には、普通はどうするのでしょうか。
私は今まで普通に見えること、さみしくないこと、恥ずかしくないことを軸に生きてきました。が、本当は年齢的にもステップアップしたいです。
申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
孤独に寄り添うお方
こんにちは、初めまして。
過去のご質問も拝見しました。
文面からは、あなたの深い寂しさ、孤独感が伝わってきます。
「物心ついた時から」「25歳になる今でも」、「夜は涙が止まらなくて、抱き締めてもらう想像をしてなんとか眠りに」つくとのことです。繊細なあなたのお心持ちに少しだけ感想を言わせてもらえれば、あなたはきっと親御さんに対して満たされない愛情を、想像によって補ってきたのだろうと感じました。寂しかったでしょう。
愛情に満足できないと、人のことが兎角羨ましく見えるものです。
自分もそれが欲しい。
けれども満たされない。
寂しい。
なんで自分だけが・・
その繰り返しのうちに、羨み余って他者に向かって悪意を持つのかもしれません。
あなたを直接愛してくれる人がこれから現れることも、一つの希望でしょう。
その望みも大切にして下さい。
ただ、直近の今、あなたにお勧めしたいのは、仏様と共に歩んで欲しいということです。
仏様(阿弥陀如来様)は、慈悲のお心をお持ちです。
慈とは、何よりもあなたのことを優先して、幸せになって欲しいと願う心です。悲とは、あなたと同じように苦しみ悲しみを感じ共にする、という心です。
苦しくなったら、悲しくなったら、寂しくなったら、そっと手を合わせて下さい。
手が合わされない時は、心の中だけでも結構です。
あなたの手を握ってくれている仏様がいます。
苦しいだろう、悲しいだろう、私も同じく感じているよ。
でも、独りじゃない。
私がいるじゃないか。
この仏にまかせて、安心なさい。
これまでも、これからもあなたと一緒だよ。
その仏様に抱かれた人生を歩むことが、今の、これからのあなたの糧となるよう、願っております。
ご参考まで
質問者からのお礼
ありがとうございます。上手くお礼が書けなくて申し訳ありませんが、本当にありがとうございます。嬉しかったです。