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旦那の前妻との子どもについて

回答数回答 1
有り難し有り難し 6

旦那は再婚、私は初婚です。

旦那には前妻との間に子供があり、離婚した後は養育費をしっかり払いながら、たまに子供とは会っていたようです。
私と結婚してからは子ども2人に恵まれ、前妻への嫉妬とかそういう感情は皆無でした。
しかしその前妻との子どもに子供が生まれたようです。つまり、旦那の孫になります。

今まで、友達、芸能人、近所、ニュースの中の人、自分が出産を経験して以降は赤ちゃんの誕生には心から祝福してました。むしろ、知らない人の子でも可愛いし本当に喜ばしいと思っていました。

ですが、今回はどうもそう思えない自分がいます。素直におめでとうとか、よかったねとか言えないというか。。
むしろ知ったのも、義母が旦那と我が子とテレビ電話してる中で知らされました。
私がその場にいるのもわかっていて伝えてきました。義母からしたらひ孫が増えたので喜ばしいことだと思います。
今まで前妻のこと子どものことは私がいないところで話していたようです。

このモヤモヤは、これは嫉妬なの?どんな感情?と混乱しています。

今後、旦那がいつかその孫と会うとかそういう流れが出てくるのかな?とも思います。
旦那にとっての子どもだから会うことには止めたくはないのですが。。
ただ、私の心構えとして今後どんな気持ちで対応していいのか、さっぱりわかりません。下手したら嫌味を言ってしまいそうにもなるし、突き放してしまいそうにもなる。もし会いに行ったなら、帰ってくるタイミングで私は子どもたちを連れて遊びに行こうかなと思ってしまいます。なんだか、そんな気持ちです。私の気持ちをわからずに行動するんだろうなと旦那にもイライラしてしまいそうです。
って、これもまだわからないのに、勝手に被害妄想してしまいます。

教えてください。

2024年1月9日 1:22

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたもあなたも両親の子、祖父母の孫、先祖の子孫。

お唱え:ワタシモオヤノ子、ソフボの孫、センゾノシソンだべソワカ。
あの子も親の子、ソフボの孫、先祖の子孫だぞソワカ。
誰もが親の子、祖父母の孫、先祖の子孫だぜオーイェイソワカ。
これをラップ調で繰り返し唱え続けていることで、壮大な人類愛兄弟愛フレッシュエキスが分泌されて旦那の子供も孫もオフィシャルな目線で愛せるようになります。誰もが誰かの子、孫、子孫なんだよね。(*'▽')(._.)(._.)(._.)💖

旦那の悩み、パートナーの悩み、相手の悩みというものは、その悩む箇所、場所はどこかと言えば、相手の側というよりもこちら側、頭の中なのだという認識を深めていくことで相手に対して過干渉になりすぎてつらくなることが減っていきます。

私も師匠からよく言われましたが、相手のことを問題にするこっちを問題にせよ、と。もちろん、実際の被害や問題があるならそれは別問題ですが、仏教、仏の教えというものは、相手だあっちだ、あれだ、彼だ、それだ、これだというのはみんなこのアタマなのです。
だから、沢山問題があると考えるのではなく、それらの問題をいちいち気にしてしまう我が頭を平静に保つという視点が家庭を守り、お子様を穏やかに育てていくうえでもとても大切な視点です。

2024年1月9日 6:40
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有り難し
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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ラップ調に笑いました。少し気が楽になりました。ありがとうございました

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