好きであるとは、心に懸けるとは
失礼致します。先日はご教示ありがとうございました。
このたびはご質問をさせていただきたく存じます。
生活していると、ある物や趣味、またある人間に対して「好きである(好きになる)」という表現が用いられることが多々あります。
この「好き」という言葉につきまして、自身の中で不安定な部分があり、お伺いする次第です。
自身にも少ないながら趣味があります。ただ最近、その「好き」が趣味そのものではなく「趣味を嗜んでいる自身」に向かっていることに嫌悪感・罪悪感や不安を抱かずにいられません。
自らの存在価値がないと感じられた折、「趣味を嗜んでいる自身」にすがって心を保った経験があり(自死などを選ぶよりは遥かにマシである、といった風に)、そのような場合にはある程度有益な見方では、とも考えられました。
ですが、精神的に最悪の状況から少しなりとも抜け出してなお、その見方がなされてしまうのは、いかがなものでしょうか。趣味に対する冒涜のように感じられる部分が拭いきれません。職業でこそないにしても、自身にその道を歩む資格があるのかと疑われ、真に心を入れて取り組んでいる方々を思うにも不甲斐なさが付いて回ります。
人を好きになることについても似たように考える節の無いこともありません。
正常な形とは言えない執心を断ち切らんと、なぜ自身がその人に執着しているのかを自問したところ、その理由は一つではなく、過ちを謝罪したいと思っていたことなどいくつか考えられました。その中にはやはり「彼女を好きである自身」に拘っていた部分も見出され、これは単なる自惚れではないかと気づいた次第です。
純粋にその物事や人を「好きである」と言い、心に懸けるとは、少なくとも現在の自身にはたいそう難しいことのように感じられます。
ただ、趣味・人のいずれにしても、関わっている自身を心のうちで称揚することは、一方では対象への敬意・感謝であるとも解釈できるのではないでしょうか。それがあってこそ、その人がいてこそ自らの心身が救われたという具合です。
「好きである」ということはどうあるべきか、そもそも「どうあるべきか」という基準を意識する必要はあるのか。
ご意見をお伺いしたく存じます。よろしくお願い致します。
長文失礼致しました。
ご高閲ありがとうございました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
苦しまない為には
好きと言ってもいろいろ有ると思います。
大別すると、愛欲と慈悲でしょうか。
人を好きになる時、このどちらか、あるいは両方なのだと思います。
また、最初は愛欲だったのが徐々に慈悲に変わったり、また逆の事もあるでしょう。
愛欲の場合、自分に苦しみが近づきます。
自分の思い通りにならないからです。
慈悲の場合、自分から苦しみが遠ざかります。
自分の思い通りにしようと思わないからです。
好きとはどうあるべきか、と言うより、自分が苦しまない為には愛欲よりも慈悲を主として接した方がいい、ということだと思います。
もっと楽に考えてみてはいかがでしょう
「好き」というコトバは奥が深いですよね。
「好き」=「ワクワク」ではないでしょうか?
その人と会えるだけで何故かワクワクするとかその趣味をやっているだけでなぜかワクワクするとか!
ただ人間の心は必ず移り変わります。
好きだったものが嫌いになったり、距離を置きたくなったり…
恋愛で例えるとわかりやすいと思うのですが一番最初に付き合ったり、好きになった人が死ぬまで好きが継続しているかというとなかなか難しいと思います。元カレ、元カノという言葉があるようにそれくらい人の心は移り変わるのです。
なので今まで「ワクワク」していたものが「ワクワク」しなくなったら次の「ワクワク」を探せば良いのです。
自分の心の「ワクワク」に素直に耳を傾けてみたら案外色々と「ワクワク」できるものに遭遇しているはずです。
ちなみに他人と比べても自分は自分でしかないので自分だけの「ワクワク」を大事にしたらいかがでしょう。
質問者からのお礼
聖章様
前回に引き続きご回答いただきありがとうございます。
仰るとおり、人・物事のどちらに対しても、自身の思い通りにすることを求めないのが要として
接したく存じます。
清水 雅典様
ご回答いただきありがとうございます。
一度「好き」という気持ちが現れたとしても、諸行無常で移ろうものだと心得ます。
それに伴い、視野を広く持ちつつ過ごしたく存じます。