自分の命の捉え方
自分の命の捉え方についてご相談させてください。
私は命は尊く、儚く、大切にしなければならないものと理解しているつもりです。
しかし、今までの人生を振り返ると、それは自分にだけ当てはまっていないのではないかという気がしてきました。
簡単に申しますと、死にたいほど辛いことはありますが、自らを殺す行為はするつもりがありません。
しかし、私は過去に事件や事故に遭遇し「死ぬな」と思った時に、抵抗することをしなかったのです。
生きる理由としては、親より先に死んではいけないと思いますし、子どもが自立するまでは生きて育てる義務があるからです。
しかし、私はまた死に直面したり、頭ではなく心のままに生きれば、簡単に自分の命を手放してしまうのではないかと不安になることがあります。
生きることに執着していない、がしっくりくるかもしれません。
学生時代に自殺した、親しい友人がおります。
その時に残された者の辛さも知りました。悩みも聞いていたのにそれでも死を選ばせてしまった、自分の無力さも知りました。命の尊さも痛いほど感じました。
経験したからこそ、私は人にこんなに辛い思いもさせたくありません。
それなのに、こんな感覚をもつ自分が情けなく思えてきます。
どんなに辛いことがあっても、休むことなく毎日やりきっているので、「毎日死ぬ気で生きている」と言えば聞こえはいいかもしれませんが、、、
先に申し上げた通り、母親としての責任もある中、簡単に命を手放す人間であってはならないと思っています。
辛い日は、心のままに動かないように飲酒を断ったり、今の気持ちと目標をノートに書き出して気持ちの整理をしたりとか、自分の気持ちのコントロールはある程度できているかと思います。
ですが、根本的な心で感じる自分の命の扱いが軽いままなのです。
どうしたら自分の命も人の命と同じように尊ぶことができるのか、よろしければ教えていただきたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
知っていることは、知る必要がないのです。
ichiさんは、とても真面目に素直に生きておられます。
そして、一番大切な「生きる」ことに対しても関心を持っておらることが、その反対の「死」に対しても、それ以上に考えれておられると思います。
辛い日には、飲酒を断っても自分の心が動かないようにする。これは酒に逃げないということでありますが決心のいることです。又、思うままにノートに心の内を表すことも有効的です。
それも自分だけではなく家族のためにも「生きる」という決意の表れで、なかなかichiさんのような方は少ないと思います。
>根本的な心で感じる自分の命の扱いが軽いままなのです。
との事ですが、「生きる」ことに対して、これだけしっかりとしていること自体が、とても命を大切にしておられるのです。
すでに、大切にしているものを、これ以上大切にしようがないとも言えます。
言い換えれば、すでに命の大切を知っているのに、さらに知ろうとしてもそれは無理なことで、すでに女性なのに、さらに女性になろうとしているようなものなのです。
この世の中は、反対の出来事で知ることができるようになっています。相対性というものですね。暑いから寒いが分かる。高いから低いが分かる。右があるから左が、そして、苦しいから楽しい幸せが分かるのです。
ichiさんは、今までに周囲の死を通じて生きる大切を知りました。これで充分です。これ以上を望むことは、さらに苦しみが必要になります。知るために。そんな必要はないので、今のままでいいのです。
自分の命を大切に思う心が、他の人の命を尊び大切にすることです。
これからも、楽しく生きていきましょう。
それでいいのです。
質問者からのお礼
お忙しい中、ご回答いただきありがとうございました。
感覚的な質問になってしまいましたが、昔から心にあった悩みでしたので、納得できるお答えをいただけて少し心が軽くなりました。
まだ自分の楽しみや幸せを探す境地に至っておりませんが、それまでは今まで通り、周りの人が幸せでいられるようできるだけ人に優しく、一日一日を大切に生きていければと思います。
ありがとうございました。