悪い事とは?正しいとは?
私は、あんまり正義の本質を知りません。ちょっとした悪い事でも人は過剰に反応し、必要までに人を責めます。
必要のない事、悪口を言ってしまいには、私の言っている事は間違っていないと豪語する人間の多いことやらで、私は非常に参っています。
そこで、質問なんですが、正しいとはなんですか?
それから、このように正義という盾を持って悪口を言う人は本当に悪い事をしてないんでしょうか?
教えて下さい。
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
相談者様が問題にされているのは正当化の問題と正義の本質についてだと思いますが、1000字足らずの言葉や論理で両方を語るのはまず不可能でしょう。しかし、私なりに正義とは何かを考えさせられた過去の体験を思い出しました。それを紹介することで、何か参考にしていただけたらと思い、回答を書きます。
もう10年以上前のことです。
夕方、私は友人を乗せて車を運転していました。彼の家まで車で送っていく途中、名古屋駅を北の方に抜けて1つ目の栄生駅の近くを右折しようとしたところでした。
そのとき彼が突然こういったのです。
「教信くんごめん!ちょっと車、脇に停めてくれる?」
私は何がなんだか分からないまま、慌てて停車しました。すると友人はサッと車から降り、駅の方へ歩いていきました。そこには二人の男性がいました。20代と30代ぐらいだったでしょうか、二人の男性が睨み合っているのが見えました。胸ぐら掴んでいたかもしれません。とにかく今にも手が出そうな雰囲気からケンカだなと思いました。
そのときやっと私は彼が車を停めた理由を理解しました。彼は喧嘩の仲裁をしに行ったのです。
友人は腕を組み、話しかけることもなくその二人をひたすらジッと睨んでいました。二人もそれに気がつくと黙ったまま、しばらく動きませんでした。(ちなみに友人は体格が良く坊主頭です)
それからその状態が何分間か続いた後、結局、二人は苦々しい表情を見せつつも、バラバラの方向へ去っていきました。
友人が戻ってきて車に乗った後、私に謝りました。
「ゴメンゴメン!俺ああいうの見ると行かずにいられんのだわ」
行かずにいられんといった友人がなぜそういう性分なのか。その後、友人から聞きました。詳しいことは省きますが、彼自身、傷ついた過去があったからでした。
長くなりましたが、私は正義の本質は何かよく分かりません。ケンカをしていた2人にも正義はあったと思います。どの正義が正しいのかは分かりません。でも、友人のしたことは私に正義とは何かを教えてくれたような気がしました。
この出来事を思い出させてくださった相談者様に感謝申し上げます。
ちなみにその友人とは、過去にあなたの相談に乗ってくれた人でもあり、私がここに登録するキッカケをくれた人でもあります。イカツイ人相のお方ですが、根はとても優しい方です。ご参考までに。
論理と倫理の極み
海藻類さま、こんにちは。
>正しいとはなんですか?
納得があること、それを「そうだ、正しい」と快く信じられること、とするのは、いかがでしょう。
少し小難しいお話をしますが、西洋由来の学問的な見方だと、感情的に納得がいかずとも、学問的な手続きを踏んでさえいれば、「正しい」と正当化される傾向が強いです。
これを、論文や学会の中だけの世界であれば、こういう正当化のプロセスで問題ないのかもしれませんが(実際は学者の世界でも問題あるんでしょうが)、私たちの日常世界は、そういう仕組みで「正しさ」が決まっていない、というところがミソです。
つまり、言葉の意味内容だけをみて正しいと思われることでも、「あなたには言われたくない、そういうあなたはどうなんだ」とか、「そんな真実、受け入れたくない!」として、納得が得られないことがしばしば起こりえますね。
そういう、相手に不信感を与える言葉の使い方を、仏教では倫理的に「善し」とはしていません。また、論理的にも、他者への批判は、「自分を棚にあげる」という欠陥をも、持つことになります。
>それから、このように正義という盾を持って悪口を言う人は本当に悪い事をしてないんでしょうか?
以上のように、善いこととは、言えないでしょうね。言ってるご自身にも、苦しみがつきまとうでしょう。
正義を「盾」にして、言い抜けして、自分は蚊帳の外に逃げてしまう感じですもんね。
余談ですが、しかし、それならどのように、「正しさ」は世に広まるか…!? 仏教はすごいですよ。こちらのエピソードをご覧ください。
https://ameblo.jp/hiroo117/entry-10450151470.html
最後に、釈尊の言葉を残して終わります。
「寂静となった比丘が、自ら寂滅していて、戒律について「このようにわたしはしている」と語ることがないのであれば、その人にとって、この世のどこにも高ぶりはないのですから、善き人々は、そのようなかれを聖なる法であるというのです。」 『スッタニパータ』783偈
仏教では、教えの言葉のことを「法」といいますが、極めると言葉だけではなく、法に則って生きるその人自体をも、「法」と呼ぶんですよ。まさに白隠禅師は、法が衣を着て歩いている状態ですねぇ。
海藻類さまも、ぜひ、法になってくださいね。では。