幸福を苛む存在
私が常軌を逸した言動の多い特異な人間であったこと、そしてそれを理由に多くの人から拒絶されて暴力を振るわれたことを以前投稿した質問で述べさせていただきました。
そして、そんな忌々しい記憶の呪縛から逃れられない今の私には、とうとう新たな悩みのタネが生まれてしまいました。
それは、
『今私が感じている幸せが、心ない何者かによって蹂躙されるかもしれない』という不安です。
私が息を呑むほどの絶景に圧倒されていると、誰かが私を背後から突き飛ばしてくるのではないか・・・。
森の小動物や愛犬そして愛猫と触れ合っていると、誰かが彼らを蹴り殺さんと襲ってくるのではないか・・・。
自転車で街を走っていると、背後から猛スピードで追いかけてきて、私の後頭部を執拗に殴打しにくるのではないか・・・。
私が人とコミュニケーションを図っていると、誰かが私の過去の行いを逐一周囲に広めては孤立する様に仕向けてくるのではないか・・・。
私が買い物をしていると、いきなり買い物かごを取り上げられて無慈悲にひっくり返されるのではないか・・・。
『〇〇の分際で 』と、今の幸せが徹底的に破壊されてしまうのではないか・・・。
誰かが、誰かが、誰かが、あいつが・・・もし・・・・・。
この様な妄念に取り憑かれ、それでも『己の弱くて醜い部分を人様に曝け出してはいけない』と平静を装っているうちに精神がかなり疲弊してしまいました。
常に目に見えぬ不安に苛まれ、折角の牧歌的な幸せを素直に享受できない苛立ちと憎しみが無意識に噴き出してしまいます。
この不安からどうやったら解放されるでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
心と現実、両方を見る
こんにちは。先日読んだ本で、「集中力というのは、生き物から見れば特異な状態である」とありました。普通の生き物たちは、常に自分の生存について周囲に注意を払わねばならず、例え食事であったとしても、そこにだけ集中していたら、命の危険に対応できない…ということでした。
ですので、あなたの文章を読んで、「ああ、この方は平和ボケしていないのだ、常に注意を張り巡らせているのだ」と思いました。
つまり、「俺が自転車で車道を走っていても、車の方が必ず避ける」とか思っている(あるいは、その危険さえ気付かない)人よりも、よっぽどまっとうに生きているのかも知れない、と思います。
ですから、その例で行けば、あなたは自転車で街を走っている時、かなり周囲に注意を払っているはずです。そして、恐らくその結果として事故に遭っていない。「不安である」と共に、「事故に遭わなかった」という現実も、ちゃんと見て欲しいと思います。
また、夜寝るときには「今日も猫との時間を邪魔されなかった、今日も変な噂を立てられなかった、買い物も無事にできた…」という「結果現実」にも思いを馳せてほしいと思います。
それは、「あー今日も何もなかった、詰まらない一日だった」と無為に過ごしている人より、幸せが多い人生と言えるような気がします。
あなたが心の平穏を得られるとすれば、それをきちんと繰り返し積んでいった結果であろうと思います。
注意深く生きることは、あなたの表現では「己の弱くて見にくい部分をさらけ出している」かも知れませんが、それってまずいことでしょうか?
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
返信が遅れてすみません。
(長くて拙い文章になってしまいました。時間に余裕がある時にでも読んでくだされば幸いです。)
なるほど、『結果現実』に目を向けるということですか。
身近にある自然の移ろいに身を寄せながら時にはその雄大さに圧倒され、
豊かな山の幸を森の動物たちと分け合って暮らす今の生活は私にとってはこの上ない至福のひと時だと思います。
しかし、この幸せは多くの人々の協力や(時には哀しい犠牲)のもとに成り立っている生活であると私は実感しています。
だからこそ、あまりにも自分本位な暮らし方をしていると、この幸せが消えてしまいそうで怖いのです。(全く合理性のないものかもしれませんが、私には
『自分は常に危険にさらされている』と自覚することで、この幸せが逃げないようにしている。それは裏を返せば、『これだけ不安な素振を見せていれば、自分はきっとこの生活を手放す必要はないだろう』という傲慢さの権化とも言えるのではないでしょうか。
常に周囲を警戒しているということは、一見すれば注意深いと感じるのかもしれません。
しかし、私は不安とは『もしもの時に備えるためのリハーサル』だと考えています。
様々な事態を想定し、時間の許す限りで出来るだけ多くの最適解を構築してみようという試みです。
どれだけ注意深くても、いざ起きてしまったことに多かれ少なかれ対処出来なければ、それはただ心を擦り減らすだけのあだ花です。
そのような意味では、注意深く生きるということは、『己の弱くて醜い部分を曝け出す』ことと同義だと言えるのかもしれません。
世の中には他人の不幸の匂いに群がり、汁を一滴残らず吸い尽くさんとする悪い虫が跋扈しています。だからこそ、注意深く周囲を警戒する自分ををひた隠しにし、平静を装っている。
ところで、私は植物を人間に照らし合わせることをよくします。
硬い殻を持ち、猛毒を仕込んだ種子。それを包む果肉は硬く、同じ猛毒が含まれている。彼らを食べようとする動物はまずいないでしょう。美味しくないし、毒だし・・・・。
彼らにとっても、それが防衛策として最適だったはずです。
まさか、そんなおおよそ食用にはならないであろう実を『是が非でも食べてやろう』と意気込む酔狂な人間が現れるまでは・・・。
丸ごと酒に漬けられ、硬い殻はいとも容易く割られて『この中身が美味い』などとご丁寧にほじくり返されたり・・・・・彼らからしてみれば散々な結末ですね。
こんな風に、自分の中の警戒心をどれだけ高めて自分自身を偽っても、一定数はいる賢しい連中によって看破されてしまい、私は為す術もなくいいようにされてしまうでしょう。
そういう点においても、過剰な注意深さとは時に己の醜さ弱さを周囲に感づかせる引き金となってしまうのかもしれないと思った今日この頃でした。
ここまで読んでくださりありがとうございました。