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両親のこと

回答数回答 1
有り難し有り難し 29

30代の者です。

父は70代母は60代。
両親には今まで育ててきてくれた事にはとても感謝しています。
しかしどうしても好きになる事が出来ません。というか嫌いです。

父は小さい頃から私をからかう事や嘘が多く、私をネタに大人達を笑わせたりもしていました。私が真剣に話をしても馬鹿にしてとりあってくれませんでした。

母は私が小さい頃から仕事をしていたので、病気の時ですら1人で過ごしていました。また、兄からのいじめもひどく、叩かれる、布団に生き埋めにされる、ひどい時はお腹をけられる。
そんな兄を母は忙しかったからか、しっかりと止めてくれる事はしてくれませんでした。

今は対人恐怖、社会不安障害で人がものすごく怖いです。

でもここまで生きてこれたのも両親のおかげ。でも両親に対する不満ばかりが頭から離れません。
どうしたら良いでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私も同じでしたよ

ウチの親も70代60代です。
結論を先に言うと、戦後世代の悲しきサガだと思ってあきらめましょう。
そういう言い方しかできない。
チョッカイ出す、いじる、からかうという謎の愛情表現なのです。(てゆうか愛情ではないよね)
人の前で子供のことを語る時どうしても謙遜のつもりなのでしょうが、謙遜が行き過ぎてバカにしているレベル。やっかみを避けるためであると言います。
まぁ、不自然極まりない行為です。
相手から心配されるほどの時もありました。
日本は謙遜、謙譲、陰徳の文化故に、良い面もあるのですが、反面悪い面もあって、行き過ぎると謙遜の名の元、低評価につながることもあります。
私は親に高い人間性を求めることをやめたら楽になれました。
親の評価は心の中に取り込まなくてもいいのです。
あなたを正しく評価してくれる人の所に行きましょう。自己肯定感を高めるためには自分の好きな事をトコトンやり遂げる。それによって、必ず共感者が生まれ、共鳴します。その中に安心感が生ずる事でしょう。今、何もなしで居てみてください。
おやからのディスりがあってもなくても貴女はあなたなのです。
そこをそのまま頂けば(直下承当)、なんの過不足もないのです。
不足感、寂寥感なども、あとからの自分への評価でもあるからです。
私は色々な方から評価されても最終的に自分を評価するのは自分なので、人の評価はあまり気にしません。ただし特別な人からの評価はよく耳を貸します。
道元「恥ずべくんば明眼の人の言を恥ずべし」
ちゃんとした人からの評価だけを恥じなさい。人間的に聖人レベルでもない人の意見をなぜそんな真に受ける必要がありましょうか。あなたが親をも受け容れるくらいの度量を持てる道。それが仏教、仏道です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お返事ありがとうございます。
親が嫌いという事が悪と思えて、本当に信頼している人にさえ話しした事がありませんでした。

回答して下さった言葉、本当に心の奥深くにしみました。
ありがとうございました。

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