死期を早めてしまった罪
神経難病で体が動かなくなる病気の父親を見送りました。
長い闘病でしたが、泣き言も言わず黙って耐える強くて立派な父でした。
病気も末期になり誤嚥性肺炎で入院したのですが、
嚥下障害が進み、どろどろにした物しか口に入らなくなりました。
病院から許可された、缶コーヒーにトロミ剤を入れて飲むのが唯一の楽しみでした。
全身の機能が低下していると医者に告げられ、かなり悪くなっていることを感じた頃、そんな父親に何ができるか、と考えて、
大好きなインスタントコーヒーをポットに入れて、病室に持っていくことにしました。看護師長さんにはその許可を得て、父親も喜んで飲んでいたので、
私は愚かにも自分がいいことをしているような気になっていました。
その日も仕事が終わって、夕食介助をした後、持参した甘いインスタントコーヒーを飲ませました。
父親はその日は特に喜んで、「あぁ、コーヒーはやっぱり美味いなぁ」
と出なくなっていた声が急にはっきりして言いました。
よかったね、と私は満足して病室を後にしました。
次の日の昼に父親は腹痛を訴え、夜になって吐血しました。
結局そこから回復出来ずに、1か月後に他界しました。
胃カメラも入れられない状態だったので、ハッキリしたことはわからないままですが、胃潰瘍だったのではないかと思います。
私が愚かにもせっせと病室に運んだコーヒーが悪化の原因ではないかと亡くなってから気づきました。
末期ではありましたが、父親には生きることへの意欲が残っていました。
一日でも長く生きて欲しかったのに、愚かな私の行為で父親の死期を早めてしまいました。
許される罪ではありません。
しかし、父が息を引き取る時、残された母の面倒は見るから心配しないで、と約束したので、何としてもそれだけは守らねばなりません。
ただ、自責の念に苛まれ、毎日が非常に苦しいです。
償えるはずもありませんが、私はこの罪とどう向き合えばいいのでしょうか。
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そんなに悩まないでください。
愚者さんのご心痛お察し申し上げます。
又、お父様のご冥福をお祈り申し上げます。
お父様も長い闘病生活を送られ、又、その介護やご心配など、愚者さんも大変であったと存じます。お疲れ様でした。
さて、色々と悩んでおられると思いますが、とても懸命に介護されたと思います。それこそ、お父様に変わって感謝申し上げます。そして、充分に満足されていると思います。
言えることは、私たちは必ずいつかはお迎えがきます。それが病気であれ、事故であれ、災害であれどのような理由であってもいつかは死を迎え、その時がその人の寿命であり、今生の使命が終わったということです。
愚者さんは、お父様のお好きだったコーヒーを工夫して差し上げていたのですから満足されていたのです。看護師さんや他の方できないことです。
それで、死期が早まったと思われるかもしれませんが、ならば、あと何年、何十年お父様を肉体的に苦しませれば良かったのですか?
愚者さんもやがて歳を取り、今のような介護ができなくなっても、お父様は生き続けて、もっと辛く苦しませることを望まれていたのでしょうか。
極論かもしれませんが、大きな観点で言えば、そういうことです。ゆえに私たちには歳をとり衰えること、病気になり肉体が維持できなくなることが自然の摂理としてあるということなのです。これを諸行無常といいます。
愚者さん、愚かではありません。大切なことをお父様からも暗黙の中で、教えて頂けてたのです。
これからは、もうお父様のことをマイナス的に考えるのではなく、プラスなこと、楽しかった思い出だけで生きてください。それが一番の供養になるのです。
我が娘が楽しく幸せになってくれることが最大の親孝行であるのです。
罪もなければ、そのような後悔もして欲しくないのです・・・お父様は。
質問者からのお礼
鈴木海祥様
ご回答いただきありがとうございました。
鈴木様からいただいた言葉が、亡き父からの言葉のように思えました。
決して娘を恨むような父ではありませんし、
私の落ち度もきっと許してくれるであろうと思える父ですが、
一日でも長く生きていたい、という思いに反してしまったのだとしたら、
自分で自分が許せません。
けれど、あんなにうれしそうにコーヒーを飲んでいた父の姿を思い出すと、
何が良かったのか悪かったのか、気持ちは乱れて混乱します。
会って答えを聞きたいのですが、
それが決して叶わないことが悲しいです。
でも、もし父が今の私の状態を見ていたら、
しっかり生きろと叱咤激励することでしょう。
少し気持ちを落ち着けて、生きていこうと思います。
これまで型通りに仏事を行ってきましたが、初めてお寺に参りたいと思いました。