前向きに生きるということ
こんにちは
私は元よりネガティブな人間であり、ちょっと悪いことが続くとすぐに「きっとこの先も悪いことが続くのだろう」と考えてしまいます。
こんな苦しい生き方はもう辞めたいので色々と自分で前向きになる方法を調べていたのですが、どうやら「自分に起こった良い・悪い・全てのことを前向きに捉える」という方法を多く見かけました。
しかし、これが、この考え方が私にはしっくり出来ませんでした。
それって例えば「試験に落ちた帰り道にスリにカバンを強奪されて、その衝撃で尻もちをついて怪我をした。」ということでも「よかった〜不合格で、カバンも盗られて怪我もした」と思う事と同じでしょう。
こんなお気楽に考えられませんし、まず落ち込んで気を病みます。絶対に前向きには考えられないのです。
この様に人生で起こる出来事を全部良い様に、前向きに捉えることなんて不可能であると私は考えるのです。
それとも、私がもう前向きに生きることに向いてないだけなのでしょうか?
自分に甘えてしまい、いつも中途半端に事が終わってしまう。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
前向きに生きられなくて良いのです…
『人生で起こる出来事を全部良い様に、前向きに捉えることなんて不可能である』…と私も思います。
もしそれが可能ならば、釈尊は「老病死」の事実をご覧になっても「前向きにとらえ」て苦悩されることもなく、従って出家されることもなく、結果 仏教は生まれなかったでしょう。
『お気楽に考えられない』から『落ち込んで気を病み』そうな私、そんな私のために仏の教えがあるのです。
私は人生を前向きにとらえ、生きることが出来ない…から、そんな私を心配なさった仏様が「私を放っておけない」と立ち上がって下さったのです。
一人苦悩に沈む私に仏様は気付かぬうちに寄り添って下さっています。そのことを頂いて下さい。
前向きに生きられようが、生きられまいがそんなことには関係無く、仏様は「私の命を尊い存在であると認め、誉めて」下さいます。私にさとりのいのちを約束して下さっています。
それを逆に申せば、「仏様が私にはたらいて下さり、私を間違いなく悟りの仏と仕上げて下さる」という尊い事実こそが、私の命が「どうでもよい存在」ではない確かな証拠なのだということです。
前向きに生きられず、落ち込む私をこそ仏様がさとりへと導いて下さっています。そのことをしっかりと頂いて下さい。
そのとき仏に認められ、受け入れられている私を、私自身が受け入れる事が出来ます。
そこに、私が私のまんま生きていける道が開かれます。
質問者からのお礼
私の悩みに答えてくださりありがとうございます。私のような者も尊い存在として認めて、寄り添って下さる仏様、そしてこの悩みを聞いてくださった小林覚城様に感謝してもしきれません。お言葉を心に、明日も私を生きてゆきます。本当にありがとうございました。