離婚するか迷っています
結婚して23年です。息子は大学生と、高3の受験生です。
息子の大学が決まったら、離婚したいと思い、準備してきました。
夫とは音楽の趣味で知り合い、結婚しました。
短気な人だとは思っていましたが、結婚して、子供ができると、子供を邪魔者扱いし、私の趣味を否定し、暴言を吐きました。夫は、私に依存しているので、たぶん、嫉妬心からだと思います。
私は、公的相談機関に行ったりして、悩みを聞いてもらっていましたが、解決にはなりませんでした。
子供を連れて逃げたかったけれど、お金のこともあり、離婚は出来ないと思い、必死で子供を守り、我慢してきました。
夫は趣味もなく、友達もいないです。何の決断も私に頼りきりで、洋服も一人で買いにいけません。
愛されているとは思いますが、自己中心的で、怒ると車を暴走したり、子供には暴力を振るったりしたので、それがトラウマになっています。
2年前に夫が理不尽に子供に暴力を振るった時、もうだめだと思いました。恥ずかしながら、夫の両親に訴え、話し合い、ずいぶん反省したようで、謝ってくれました。
子供は素直なので、謝罪を受け入れましたが、私は、その時点でもう心の糸が切れてしまいました。
それから、離婚するために転職し、フルタイム勤務になり、経済的にはなんとか一人でやっていける程度の収入を得られるようになりました。
ただ、その事件以来、よほど反省して離婚を回避したいのか、夫は優しくなり、家事も少し手伝ってくれるようになりました。
昔は、俺に手伝わせるのか。とか、俺が稼いでるのにとか、上からしかものを言わなかった人が、少し丸くなったと思います。
しかし、将来のことを考えてしまいます。子供が独立して二人になったら
子供への暴力はなくなるでしょうが、短気な性格は治らない。それに、さらに夫は私に依存してくるだろう。それを考えるだけで憂鬱になります。
私もやりたいこともあるし、たぶん夫に気を遣ってやりたいことを諦めたりせねばならないこともあると思います。離婚して、新しい人生を歩みたいと思い、準備してきましたが、やはり改心した夫を許して、離婚は踏みとどまるべきでしょうか。
愛されているのはわかっても、私は、もう愛せないのです。過去がトラウマです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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「べき」から「たい」に
こんにちは。
お辛いでしょう。お察しします。
「息子の大学が決まったら、離婚したいと思い、準備してき」たとのことです。文面からは、かなり計画的に進めてきた印象をうけます。一人で抱え込まず「公的相談機関」に相談してひたすら耐えながら、「転職し、フルタイム勤務になり、経済的にはなんとか一人でやっていける」という所まで努力されたのですね。離婚に伴う経済的なネックは解消されているので、後はご自身の選択次第という段階なのでしょう。
私が考えるべきだと思う焦点は、ご主人との間の「愛」についてです。
「愛されているのはわかっても、私は、もう愛せないのです」という末尾にあなたのご心情が凝縮されています。では、ご主人の「愛」はどのような中身なのでしょうか。あなたは、「依存」と表現しているように、それは夫婦相互の「依存」ではなく、一方的なご主人からの「依存」になっている、少なくともあなたにはそう見えている。つまり、「愛」と「依存」の区別が曖昧になっている所が、お悩みの原因ではないかと感じました。
「自己中心的で、怒ると車を暴走したり、子供には暴力を振るったりした」とあります。「趣味もなく、友達もいない」孤独なご主人は、もしかすると対人関係の築き方が苦手なのかもしれません。不器用だから孤独であり、奥さんしか人間関係がない、そういう人もいると思います。
しかし、ご主人は外部的な孤独に加えて、「暴力」「暴言」等を以て家庭内部でも孤独を深めている所が問題だと思います。現に子供さん、あなたとご主人の心理的な距離は大きいのではないでしょうか。文中に、「もう心の糸が切れてしまいました」と吐露しているところに、回復が難しい状況が見て取れます。
年齢的に「少し丸くなった」ということはあるでしょう。
しかし、「自己中心的」な視点で「依存」されることに戸惑い、突発的に「怒る」ことが「トラウマ」になっている今状況は、積極的に「愛」と呼べるものでしょうか。
「離婚は踏みとどまるべき」と「べき」で考えるとわからなくなります。
あなたには思う存分「やりたいこともある」のでしょう。そう、「たい」という積極的な希望が。
長年続けてきた耐える「べき」、やり直す「べき」から解放された、「たい」という広々とした地平に踏み出す自分を想像する。別居、離婚、或いは継続にしても、自分の幸福を前提としてお考えください。
質問者からのお礼
ご回答いただき、ありがとうございました。
私の拙い文章の中から、私の気持ちを深く汲み取っていただき、とても嬉しい気持ちで読ませていただきました。
「べき」だと思う気持ちよりも、「たい」という気持ちをやはり自分の人生のため尊重し「たい」と思いました。
心が少し軽くなりました。
ありがとうございました。