苦しみからの解放
私は、今の苦しみから輪廻からの苦しみの解放をどうやったら出来るのか?私なりに調べてみました。
そしたら、福音書というものに、人の命、生き物の命を愛しみ世の中のためになる事をして生きていけば、死後は栄光の身体を与えられて幸せに満たされると書いてありました。
つまり、もう生まれ変わる事もなく苦しむ必要のない世界に召されると言うことです。
ここで、質問ですが、人はこういった価値を見出し世のために善行を働いたら死後はもう苦しみから解放されているのでしょうか?
現世でどんなに世の為になる事をしても幸せを心から感じることが出来なくなった人間でも死後は幸せいっぱいの世界に召される事はありますか?
お坊さん的観点からのご意見お待ちしてます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
感動は人生に数回あったらラッキー
拝読させていただきました。
人はそれぞれ感じ方というものは異なる十人十色でありますが、嬉しいことなど記憶に残っているものは僅かなものです。
生きることは、苦をともなうことは常であり、苦もあるから楽を感じれるのも確かですよね。
ただ思考を優先し実行に移さなければ、いつまでも本当の喜びを味わうことは少ないものです。
有名な映画「男はつらいよ」で、寅さんの甥っ子の満男が寅さんにこんな質問をしたシーンがあります。
・満男「伯父さん、人間は何のために生きてんのかな?」
・寅さん「何というかな、生まれて来て良かったなって思う事が何べんかあるじゃない?そのために生きてんじゃねえか。そのうちお前にも、そういう時が来るよ。」
こんなシーンがあります。まさにこのように人には色々と経験をしていく内に、年齢など関係なく、その人たちのその人生の積み重ねの中で、感動という喜び事が訪れます。しかし、臆しているうちはその経験は中々やってこないものでもあります。
映画もテレビの画面で観てるうちは映画館でのサウンドも含めた迫力感なども変わってくるように、まずは感動を少しずつ味わうことは体験を実行する気持ちから変化が訪れると感じます。
仏教では生きることは一切皆苦なのです。しかし、仏教の開祖であるお釈迦さまはこのように説法してくれてます。
「努力の根は苦いが、継続した結果の実はとても甘い」
と、言ってくれています。
この言葉は、様々なことに当てはまるものであり、努力は嘘をつかないものであり、努力してと成功と繋がるものではなく、努力することで生きる力となり、努力している過程で、何か自身へ生きるヒントに出会うこともあります。その努力はその時に効果がなくとも、違う経験をするときに役立つものでも必ずといっていいほどあるものです。
※キリスト教では基本的に輪廻の思想はありません。
※仏教では輪廻の思想はあります。
先ほど説明させていただいたように、生きることは一切皆苦です。しかし、心を育てることで、心(魂)というものに「念」が宿るのです。一切皆苦だから諦めるのではなく、人間として生まれてくることは計り知れないほど難しいものであるので、生きたくても生きれなかった人、生きたくても生きれない人の気持ちを引き取ってください。
必ず、生きていてよかったと思える瞬間が訪れる希望を持ち続けてください。
悟って煩悩が無くなれば解脱できる
私達を輪廻の世界に縛りつけている原因は、煩悩です。
輪廻から解脱するためには、真理を悟って煩悩を無くす必要があります。
悟るためには修行が必要です。
善い行いをすることも修行の一環になります。
善いことをすればするほど心に良い癖がついて悟りやすい性格になれます。
反対に悪いことをすればするほど心に悪い癖がついて悟りにくい性格になります。
あなたがはるか昔からの輪廻の中で善い癖(功徳)を蓄積していれば、今回の人生で失敗して悪い癖(罪業)を増やしても、来世に良い世界に生まれる可能性はあると思います。
今晩眠るときにどんな夢を見るか、寝てみないとわからないでしょう?そんな感じで臨終の瞬間まで来世はわからないのではないでしょうか。
ただし、浄土宗では、南無阿弥陀仏と念仏を称(とな)えればどんな悪人でも来世は極楽浄土に往生できると考えます。
経典に書かれている阿弥陀仏の誓い(本願)を信じるなら、阿弥陀仏が私達を浄土に迎えてくださると誓ってくださっているのです。
極楽浄土は修行しやすく悟りやすい環境が整った「最強の塾」(悟りのライザップ)なので、極楽浄土に往生すれば解脱への近道になるはずです。