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家族の一員として

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有り難し有り難し 19

おはようございます。
初めて質問させていただきます。

私の家族、両親、姉、私の息子(今春に大学院へ進学で一人暮らし)です。
今は家族と暮らしています。両親は元気で本音で話し合えます。

姉ですが半年前に
「あんたとは一生、話さない縁を切る」と告げられて以来、家の中で会うことも話すこともありません。
原因は私にあります。幼い頃から姉の持ち物を盗むようになりました。何でも出来る姉が羨ましかった気持ちから、そんな事を繰り返しては謝る。それは大人になっても繰り返してしまい謝罪した私を
「もう一度だけ信じる」と何度も言ってくれた姉を昨年の始めに、また同じ事をしてしまい絶縁されました。

こんな事をする私を何度も信じてくれたのに何故、繰り返し裏切ってしまったのか?何度も何度も自分に問いかけては答えは出ない日々。

私にとって家族はいちばん大切な存在。大好きな姉なのに何故、傷つけてしまったのか?
何故、私は同じ事を繰り返してしまうのか?

以前から姉は
「家族は一緒に暮らすことが一番の幸せや」と言っていました。
私も同じ気持ちです。なのに私は何をやってんだろう。
姉の気持ちを思うと相当、苦しくて辛かったと感じます。
そんな思いをさせてしまった絶縁まで覚悟して決めた姉に今は懺悔の気持ちでいっぱいです。

以前のように姉とアホなことを言って笑い合い時には本音を言ってお互いの思いや考えなどを話し合いたいです。

今、私が一番すべき事が何なのか?
自分と向き合うという事が出来ない、仕方がわからない自分に情けない思いと姉や両親や息子に対して、これから私ができる事は何なのか?

ここまで書いてひとつわかった事が
自己中心的な私。

長文になりましたが宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

感情的にならない コミュニケーション

「アナ‼手袋返しなさい!」
「エルサ‼どうして姉さんは分かってくれないの‼」
「つーか手袋返しなさいっ‼」
「いやよ、それより結婚認めて‼」
「つーか手袋返しなさいっ‼!」
「どうしていつもエルサは私に向き合ってくれないのっ!」
「いーから、手袋返しなさいっ‼」
「こんなもの、なによ!」
「アー!何このシミー‼あり得ない!人のものを‼」
安心してください。そのシミ、落とせます。アリエールで!
兄弟姉妹というものは話がかみ合わなくて全然OKッス。
あなたはお姉さんが羨ましいことがある。
お姉さんはものを勝手に持っていかれて困る。
そこでもすでに話がかみ合っていません。
多分そこの話をしても「それとこれとは話が違うだろが」とケンカになると思います。
何が原因か。みんな誰もが自分のことが最優先であることが問題なのです。
まず、相手がボール投げたら打ち返したり、あなたも投げるんじゃなく、キャッチする。
なんで姉はキャッチしてくれないのよ!ではなく、あなたがキャッチすればいい。
誰もがみんな自分中心です。そこに気づけたあなたは立派だと思います。
それを伝えればお姉さんも心を開いてくれると思います。
「私が自己中だったわ」
「そうよ」
「何よ!姉さんは違うとでもいうの!」
「反省がないのよ」
「反省してるからこう言ってるんじゃない!」
「そういうところが全然反省してない!」
「してる!」
「してない!」
みたいにならない様にナイスキャッチボールを。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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