hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

「無常」と「死」

回答数回答 2
有り難し有り難し 23

高校3年生です。
僕は、多分周りの誰よりも死ぬのに臆病です。
人は必ず死ぬ。その事実をなんとかして受け止めようと、色々模索していたところ、お釈迦さんの教えである「無常」に辿り着きました。

「世の中にある万物は変化し続け、ずっと変わらないものなどない」という様に自分は解釈し、自分の生き方に当てはめてみました。

しかし、ある疑問が出てしまったんです。

僕はあの世とか魂などというものを、あったらいいなとは思いますが、なかなか信じられないでいます。

それ故に、人は死ねば終わりだ、「無」だ、と考えているんです。

お釈迦さんも、死後のことについてはあまり説かれなかったと聞いています。

ならば、死んで「無」であったとしたら、
「無常」という考え方は果たして通用するのか自分には分かりません。

お坊さんなりの解釈やヒントを教えていただければ幸いです。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「無常」の裏表と信心

こんにちは。

文面からは、あなたがとても「死」の問題を切実に考え、向き合われていることが伺えます。「死」の問題について、仏教的観点から考えたいのですね。

「世の中にある万物は変化し続け、ずっと変わらないものなどない」、これが「無常」ということはその通りです。ただ、これはしばしば誤解されがちなのですが、「無常」とは全ての存在は儚いという意味合いの一方、儚いがゆえにその存在している瞬間が貴重である、ということも教えてくれるのです。

あなたは「死」という事実が、100%の結果として受け止めかねて、「誰よりも死ぬのに臆病」になっているかもしれません。それはそれで人間の情として自然ですからいいのです。

ただ、「死」という事実は、生きている、命ある自分を際立たせてもくれます。

心臓が動いて、血液が流れ、空気を吸い、ご飯を食べ、人と話し、喜んだり、泣いたりする。その貴著な一瞬を噛みしめさせてくれるものが、「死」でもあり、「無常」という考え方であることを知ってほしいです。「死」があるからこそ、生きているということが言えるのです。

「無常」ということを、儚いと貴重であるという両面で見れているか、これが1つ。

2つ目ですが、これは仏教という大きな括りではなく、もう少し具体的な宗派、信仰に関わるお話です。私は、浄土真宗の視点から語ります。

「僕はあの世とか魂などというものを、あったらいいなとは思いますが、なかなか信じられないでいます」とあります。「信じられない」のですね。なるほど。

私は、極楽浄土がある、と聞き信じさせていただいています。

何で、こんなもって回った言い方をしているか、というと信じるという自分の意志・思考に重きをおいていない表現を取るためです。私が信じるから極楽があるのではない。信じないから極楽がない、ということでもない。

仏様によって必ず極楽へつれ往く(往生)と聞かされ、信じさせていただく(信心)から極楽があることを知る、のです。これは、何度も聴聞という法話を聞くことによってのみ得るられることです。

あなたの宗旨がわからないので、簡単な案内となりました。
あなたの仏教を見定めていく時のヒントになればと思い書きました。
では。

追記
ご返信ありがとうございました。
お役に立てて嬉しいです。
また、質問あったら聞いて下さい。
仏縁が深まらんことを。

{{count}}
有り難し
おきもち

釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...
このお坊さんを応援する

無常ゆえに「無」が成り立たない

うーん。難問だ。

答えから言うと、無常ゆえに「無」はありえないんです。

同様に私たちが恐れる「死」も脳内の概念だとなります。

お釈迦さんは、あの世とか、魂とか、無とか、仮に言葉は認めても、それはただ言葉や概念だと見るんですよね。

それと、無と考えてる間に、執着捨てる修行しましょうというのが、お釈迦さんですねえ。

死後、無だと思うことは仏教的には誤りのようです。

有無の判断は、どちらも仮の見方になります。

無常なこの世界は、有とか無とかの言葉、概念でとらえられない。ゆえに無常というんです。

ってかこんな説明でわかっていただけるでしょうか?甚だ心許ないです。

お釈迦さんは、死後、無に帰すと考えることを、断見だんけんといって退けたそうです。

永遠の命や、変わらないものも、常見じょうけんとして、同じく退けました。

ですので、あなたが、お釈迦さんに、死後は無ですか?と聞いたら、お釈迦さんは無言です。

答えないという回答なんです。

死後のことはわからない。それを考えてるうちに、貴重な寿命が尽きてしまう、と。

それより、無常の体得に努めよ、というのがお釈迦さんですねえ。

{{count}}
有り難し
おきもち

人生も階段ばかりじゃしんどいです。 たまには踊り場で一緒に泣きません...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

ご返信ありがとうございます。
とても有難いお話が聞けて、心がスっと軽くなりました。
「無常」とは儚く、貴重なもの、だからこそ生きているのが素晴らしいんだ、そういった心で生きていきたいと思います。

また、もっと仏教について勉強しようと思えました。

「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 2
回答数回答 1

病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

有り難し有り難し 13
回答数回答 2

死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 11
回答数回答 3

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ