失恋相手の幸せを祈ることについて
失恋をしました。
ネットで出会った方でしたが、ひと月ほどで別れてしまいました。
原因は私の失言です。ネットゆえ身元のわからぬ方であるため、過去に彼の本名で検索したのですが、それが不快だったそうです。
もちろん謝罪し、弁解をしました。
私は完璧ではなく嫌なことを一つもしないというのは出来ないから、せめて言ってほしかったと伝えましたが、駄目でした。
元々別れも理由も書かずに一方的にLINEで告げられ、理由は後日家に行って聞いた形です。
色々聞いていると元々他人と喧嘩や話し合いを避ける方で、一方的な別れも「罪悪感が少ない」という理由だったそうです。
また、過去に何人かお付き合いした方は居たものの、皆短期間で似た別れ方をしたそうです。
酷い人と思うと同時に、可哀想だなと思ってしまいました。
人恋しいと思うのに、長続きせず人を傷付け別れてしまう。
彼はそんな自身と一生向き合っていくのかと考えると、そう思ってしまいます
人とぶつかるのが苦手なことや、逃げ癖も理解し寄り添いたいと思った上で、貴方ともう一度と伝えました。でもだめでした。
復縁は絶望的と感じ、かといえ好きな方なので、気持ちに整理もつけられません。
今はせめてもと幸せを祈っています。
地方から来た方なので、この地に住まう間だけでも健やかであってほしいと。
彼が、いつか自分を変えられるきっかけと出会えますようにと。
そして彼を好きになったばかりに悲しむ人が、私で最後でありますようにと。
憎むより祈る方が心が荒まないような気がして、ずっとそうしています。
失恋は辛いです。
でももしも彼が変わらぬばかりに、また私と同じ経験をする女性が出てくるかもと思うとそちらの方が辛いです。
ですが祈る一方、自分が復縁という見返りを求めている気もします。
祈りが届いて、彼がこちらを向いてくれるといい。
そう考える心があって、祈りが歪むような気になります。
復縁はしたいですが、最後縋ったばかりに嫌われており、しても幸せになれると限らないと理解しています。
人を悪く言うのは元々好きでないこともあり、悪し様に言うより、幸せを祈った方がいいとは理解しています。
それでも祈る際の裏心を自覚すると、一体誰のために、何のために祈っているのかわからなくなってしまいます。
こんな気持ちでも、このまま祈っていていいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
仏教は祈りの基盤になる心を問う教え
こんにちは。
「こんな気持ちでも、このまま祈っていていいのでしょうか」とお尋ねです。
仏教だから「祈る」心や方法についての見解が豊富なのではないか、そういう背景でのご質問と見受けました。
私の仏教(浄土真宗)は、人が祈って何かを成就する教えではありません。
むしろ、その表面的には美しくみえる祈りの基盤になる心を問う教えです。
その心とは、煩悩、自己中心性です。
自分を中心に、自分の願いどおりに人生をコントロールしていく。
これは、必ず行き詰まります。
なぜなら、思い通りにしようとしているのは他者も同じであり、思い通りにしようとする者同士で衝突し、勝者と敗者ができる。もし、勝者で有り続けても老い、病、死という、自分の願いどおりにならない不可避の出来事が人間には共通して問題になります。思い通りにすることが極まった人ほど、思い通りにならないことが苦しくて堪らない、そういう結末を辿るからです。
あなたにとって、失恋は大変辛いことでしょう。
しかし、一歩距離を置いてみると、彼もあなたも思い通りにしようとする者同士である、とも言えないでしょうか。
彼は、「過去に何人かお付き合いした方は居たものの、皆短期間で似た別れ方」をしているのですね。「別れも理由も書かずに一方的にLINEで告げ」というのは、交際相手の心情を考えない、話し合いもしないという点でかなり一方的です。あなたが「嫌なことを一つもしないというのは出来ない」のはその通りです。彼は、自分の「嫌なこと」を「一つ」もしないような人を探しているのでしょう。それは、自分の思い通りにしたい、そこにフィットする人でなければ受け入れない、という頑なさがあるように見受けます。
一方、あなたも「祈る一方、自分が復縁という見返りを求めている気もします」と大切なことに気がついています。あなたは、言葉などのコミュニケーションが彼と交わせなくなった代わりに、「祈る」ことによって「復縁」という自分の願う方向性を実現しようとしていないでしょうか。
私を含めて人間は、多かれ少なかれ自己中心的です。
しかし、その自己中心を顧み慎んで大切な相手のことを思いやれたら良いな、思いやりたいなと動く心が愛情なのだと思います。あなたにはその準備があったけれども、彼にはなかった。当分、彼の心が変わることもない。そう思い切られたらいかがでしょう
質問者からのお礼
ありがとうございます。
実家が真言宗なので、浄土真宗の祈りについては初耳でした。
無学なりに色々調べ、こんな言葉にたどり着きました。
「しかし、頭ではわかっていても、自らが大切とする者のために祈らずには
おれない不完全な存在なのです。
その願わずにはおれない人の心を、阿弥陀仏は大きなお慈悲の心で包んで
抱きとめてくださっているのです。
私たち人間が不完全であるということを阿弥陀仏は見通され、私たちが願うよりも先に、
すでに私たちに向かってはたらきかけていてくださいます。
ですから、そのはたらきをそのまま受け容れ、感謝する以外にないのです。」
これが一番しっくりくるような気がしました。
お坊さんの回答も併せて、祈るのは絶対ダメということはないが、
同時に私の中にある自己中心さとは、しっかり向き合うべきと感じました。
正直今でも辛く、泣くことも多いです。
結婚も考える歳なので、次も探しますが中々上手く行きません。
それでも、お坊さんの
「その自己中心を顧み慎んで大切な相手のことを思いやれたら良いな、思いやりたいなと動く心が愛情なのだと思います。」
この言葉を信じて、私の愛情を受け入れ、また相手の愛情を私に差し出してくれる誰かを探して、また頑張ろうと思います。
お礼のあと、もう少し気付いたことがあったので追記させてください。
また考えて「私は弱いからこそ祈る」のだと気が付きました。
そうするとふと、自分が何のために祈っていたのか、すとんと腑に落ちました
弱いから諦められないし、かといって縁を完全に切ったり、酷い行いをした彼を悪く言うことも出来ない。
それでもこの気持ちをどうにかしたくて、自己中心的な祈りをしていたのだと思います。
他人のために祈る行為は優しいことだと耳にしますが、
いざ自分がそうしても少しも優しくなった気がせず、何故だろうと考えてしました。
その上で私は「優しいから祈る」ではなく「弱いからこそ祈る」と考えると凄く納得できます。
祈るときに向き合うべきものが、自分の自己中心さ以外にもまだあると気付きました。
あらためて、ありがとうございます。