余命一年の伯父と仏様の教え
こちらで度々質問させていただいています、るると申します。
私の伯父がある重い病で余命一年と宣告されました。
伯父は日に日に病状が重くなり生活に支障が出てきているのと、今後への不安でかなり混乱しているそうです。
私は以前、浄土真宗である実家のお寺のご法話で「南無阿弥陀仏は感謝と報恩の言葉」と聞きました。
しかし、今病に苦しむ伯父に「仏様に感謝して生きよう」なんてとても言えません。
また浄土真宗ではご祈祷をしない、願い事をしないとも教えていただいたため、真宗門徒の私は伯父の病に対してどんな気持ちを持ったらいいのかわかりません。
重い病に苦しむ人間を阿弥陀様はどう見ているのでしょうか。
真宗門徒の私はどんな心持ちで伯父を見守っていけばいいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
浄土真宗の根源の問いですね。深く重いです…
あなたのご質問は宗教(浄土真宗)の本質をついていらっしゃいます。一番大切なことを問うていらっしゃいます。きちんとお答えできるか不安ですが、一浄土真宗僧侶として申させて頂きます。
『重い病に苦しむ人間を阿弥陀様はどう見ているのでしょうか』…きっと「つらいよのお」とおっしゃっておられます。私達の苦悩の全てをご存じでいらっしゃるお方ですから。
『今病に苦しむ伯父に「仏様に感謝して生きよう」なんてとても言えません』…でも、「お医者様も一生懸命治療して下さっているのだから、この上は病も、また病の身も阿弥陀様にお任せですね」とおっしゃることは出来るのではないでしょうか。事実、医療者でなければこちら側で出来ることはもう無いのですから。
『浄土真宗ではご祈祷をしない、願い事をしない』…事実です。
神仏に祈り事 願い事を致すことは、我等の要求を神仏を引き受けさせる(押し付ける)、つまり神仏と取り引きをすることになり、礼拝の対象である神仏に対しては随分失礼なことになります。しかも、そのことで(実際は治療の効果、また自身の肉体の頑張りにより)病気が治れば喜べるでしょうか、その効なく…ということになれば、「なんだ神も仏も大した力なんて持ってないんだな」と勝手な判断をしてしまう私達だからです。
老病死は…誰もがもう避けられないのです。私達に出来るのはせいぜいそれらを先延ばしにすることだけ。しかも先延ばしできて良かったと思う反面、その分苦悩する時間も延びるというのが実際の私達の有り様です。
死ぬのは辛い…でも生きるのも辛いものです。
そんな私達を何とかしてやりたくて、「『仏』という、苦悩から解放されたさとりのいのち、また老病死から解放された永遠のいのち」を我等に約束して下さったのが阿弥陀様です。
伯父様は遠くないうちにこの娑婆世界での居場所を失うことになられるかも知れません。でも娑婆での居場所がなくなった次の瞬間、浄土に永遠の居場所を得るのです。しかも浄土から自由にこの娑婆に帰ってくることの出来る存在となれるのです。
死にたくない…死なない…死んでたまるか…絶対生きてやる…そのような思いは生きる力ともなり、また自らを苦しめる呪文ともなります。
そんな思いを手放せとおっしゃるのが阿弥陀様のおはたらきであり、御諭(さと)しなのです。また手放させるお方が阿弥陀様です。
質問者からのお礼
小林覚城様
質問へのお返事いただき誠にありがとうございます。
お返事何度も読み返しじっくり考えました。
「阿弥陀様は全ての生き物の苦しみをご存知でいる」「阿弥陀様に我が身をお任せする」というお言葉が強く響きました。
祈願や祈祷に逃げて伯父の病に向き合っていなかった自身の弱さにも気付きました。
病の身の伯父だけでなく私もいずれ必ず死ぬ、しかし阿弥陀様は全ての人を浄土へ導いてくださる、病と死から目を逸らさない教えを既に阿弥陀様からいただいていたのですね。
伯父は自身の望む病院に入院できたみたいです。
伯父が少しでも満ち足りた生活ができるようサポートしていきます。