他人を尊重することと無関心の違い
こんばんは。久々に質問をさせていただきます。
最近ふと思うのですが、他人を尊重することと他人に無関心なことの違いはなんだろう?ということです。
自分は友達や周りの人に対してもあまり干渉しすぎないようにしています。
それは自分が他人に干渉されることがあまり好きではないからです。
なので他人にあまり関心がもてません。
極端なことをいうと、他人が幸せになろうが不幸になろうが、自分には関係ないと思うときもあります。(この考えは少し極端すぎると思いますが...)
なんだか最近のニュースを見てると芸能人の過去のスキャンダルや不倫が発覚すると、周りな人が猛烈に叩いて、不祥事を起こした人を表舞台から消すことが多々ありすますが、正直言って「自分の家族ならまだしも、赤の他人の不祥事によく怒ることができるな」って思い、すごく違和感を感じます。
話を戻しますと、他人を尊重するということは、その人の考えを否定しないというのが一つの考えだと思うのですが、みなさんはこの違いをどのように考えていますでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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知ることと認めることは必要かと思います
拝読させて頂きました。
あなたがおっしゃるように人がした罪や犯罪をやたらとたたくのはいかがかな?とも思います。あまりその様に過剰に干渉することはその人の生きる権利・人権を侵害することになりかねません。
非難や誹謗中傷してその人をたたくことはその人の生きる権利を奪うこと、その人の命を奪うことに繋がっていくと思います。
私達人間はとても弱いですからそのように一方的にたたかれては生きていくことはできません、息することさえできなくなってしまいかねません。
ですから無関心でいるというよりはその人がなさったことはなさったこととして事実を確認して、その言動によってどのような結果となったのかをしっかりと確認することは必要かと思います。罪を犯し他者を傷つけたのであれば謝罪することや罪を償うことが必要になりますからね。
ただその人にはその人の生きる権利があります。ですからその人の存在や生活していく権利を尊重して決して侵害しないように心掛けることは共に生きる私達が守るべき必要最低限の義務だと私は思います。
私達は神仏ではありません、甚だ未完成な未熟な者です。タイミングが合えばあやまちを何度も犯してしまいかねないものですし、知らず知らずのうちに他者を傷つけてしまいかねない存在なのです。ですから本来ならば誰しもが他者の責任を責めることさえできない存在です。
そして人それぞれには様々な歴史があるでしょう、その人が言ったことその人が行ったことにはそれぞれに何かしらの原因がありつながりつまり因縁があるでしょう。
他者を殺すのに理由などないか?と発言をたまに耳にすることもありますが、私達には知りえない様々な原因や巡り合わせや因果関係がそこにはあるものです。
ですので一概に何でもひとくくりで悪いものだと責められないとも思います。ですからその人の存在や尊厳を尊重した上でどう受け止めていくかが大事なことなのではと思います。
地球環境も大幅に変動して中国から発生したコロナウイルス感染症が瞬く間に自分の身も周りに大きな影響を与えている現在ではどんなことにも少なからず関心を持つことはやはり必要かとも思います。対岸の火事がいつの間に自分の足元に迫ってきていますからね。
ですから良し悪しを判断する前に自分で知ることそして尊重することが生きる上で大事だと私は感じます。
質問者からのお礼
返信が遅れてすみません。
回答ありがとうございました。
過去に人間関係で辛いことが多く、今でも悩むことが多いですが、少しずつ他人を尊重できるようにしていきます。