何かを好きになることは、いけないこと?
僕は絵を描くのが好きなのですが、周りの絵を描く人を見ていると、誰にも見てもらえなくて絵を描くのを止めたり、上手い人に嫉妬して絵を描くのが嫌いになったりしてる人が多いのです。
そういう人たちを見ていると、「他人から見てもらえることや、上手くなることに執着してそれを追い求めても、結局は満たされずに絵が嫌いになってしまう。絵をずっと続けていくには、それらに囚われず、絵そのものを好きになることが大切だ。」と思うようになりました。
そうして色々調べている内に、初期仏教の「感覚に執着しない」という教えに辿り着き、それが様々な教えの中で最も根源的だと思うようになりました。
「○○が欲しい」「○○が快い」と思って追い求めて行っても、それが満たされなかった時に結局苦しみを覚えてしまう。苦しみを覚えないためには、感覚に心を動かされず、静穏な心で物事をありのままに受容すればいいのだということです。
実際その教えを実践していって、絵以外の様々な物事にも影響が出てくるようになりました。今までは自分のマイナス感情に振り回され自己嫌悪に浸っていたのですが、「これはこういう情動なのだ」とありのままに観察し、執着しないことでそれらの悪循環から抜け出せたのです。
しかし、よくよく考えてみれば、「絵を描くのが好きだ」というのも感覚であり、執着です。「これは自分の人生でやりたいことだ」と言ってしまえば、それが果たせなかった時の苦しみの源になります。もしそうだとするならば、絵を描くことを好み、苦しみなくそれを楽しみたいという欲求にも囚われてはいけないのではないでしょうか。
羨望、怒り、憎しみ、性欲、恋情、その他もろもろ
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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喜びも、苦しみも、内包することだと思います
僕も「絵をずっと続けていくには、執着に囚われず、絵そのものを好きになることが大切」だとと思います。他人からの評価や、上達に対する過度な執着は苦しみの原因となります。その苦しみが、絵をずっと続けていくことの妨げになると思うからです。
同時に、「感覚に執着しない」ということを創作活動において「完全に」実行することもまた、ずっと続けていくことを妨げると思います。もし感覚からくる執着を完全に捨て去ることが出来たのならば、そこはモチベーションも、感動も失った世界になるように僕は思います。プログラムによって動くロボットは、動き続けることができるのでしょうが、人間はそうはいきません。確かに、執着を捨て去ったその世界では執着からくる苦しみは発生しないでしょう。しかし、執着からくる喜びやモチベーションも失われた世界では、ずっと物事に取り組み続けることはできないと思うのです。
それでは、創作活動を続けるために(ある程度の)執着をもち続けるならば、そこからうまれる苦しみと、ずっと付き合っていかなければならないことを意味するのでしょうか。
僕の答えはYESです。光と闇の概念が単独で存在しないように、執着と苦しみは一体の存在だと思うからです。執着はモチベーションや喜びを生み出しますが、失う苦しみや恐怖を同時に内包します。
しかし、執着を完全に消すことはできなくても、人は執着や、執着からくる苦しみをコントロールすることができます。うゆにさんはもう、初期仏教から学ばれ、実践されているようですね。このような方法を学ぶことは、ずっと何かを続けていくにあたって、あなたの力になってくれることでしょう。
何かを好きになることは、いけないことではありません。喜びも、苦しみも伴うことですが、無意味なことでも、いけないことでもないというのが私の答えです。
●追記
ご投稿の末尾の一文につきまして、考えたのですが、僕にははっきりとお答えできませんでしたゴメンナサイ。考えたことを記載します。「過度に」囚われすぎるのは良くないと思います。正の効果がありつつも、囚われすぎることで見失う大切な要素もあると思います。例えば、苦しみなく楽しみたいと思うあまり、心に生じた苦しみや付随するインスピレーションを過剰に嫌悪してしまうなど。負の感情が創作のプラスになるなど、何がよくて何が悪いかは、わからないこともあるのです。