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誤って顔を崩してからの生き方

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こんにちは。15年前に父親に目尻を殴られ傷跡ができました。ずっとコンプレックスであり、2年前に縫合による修正手術を、その後、7回レーザー照射をしました。しかし、治療中は気づかなかったのですが、傷跡を消したい一心で治療しているうちに、傷跡の範囲が広がり、それを追いかけるようにレーザー照射をし、まぶたにまで2回照射してしまいました。多くの人から褒められたり、気に入ったりしていた二重の間の目尻の膨らみやまぶたの微細なしわが全て消失し、まぶたがしぼみ、全くの別人の顔になりました。片側の目は自分の元の目であり、右側から見た顔と左側から見た顔は別人です。したことへの後悔や人生に絶望し、3ヶ月近くになります。仕事には行っていますが、仕事中やプライベートの時間は手足の震えや絶望感に襲われます。精神科に行き、身体醜形障害といわれ、現在カウンセリングを定期的に受けています。しかし、見た目は戻らず、自分のアイデンティティと思い、気に入っていた目を自ら破壊し、絶望感でいっぱいです。情けないことに、大好きだった仕事にも手をつけられないこともあります。プライベートでは何も手につかず、こんなに人生が転落するとは予想していませんでした。一生この顔なので、変ですが、今はテープで隠して生活しています。まだ受け入れることができず、なぜ自分がという思考もあります。絶望や大きな後悔、生きるのが辛い状態からなんとか回復するアドバイスがありましたらお教えいただきますと幸いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それを気にする負の一念こそが自分を苦しめている犯人と知る

顔のコンプレックスを解消するには「自分が何をやっているのか」を本質的かつ具体的に見極める。その内容を明らかにすること。それを徹底的に追及することで脳が自分のやっていることの無意味さ、曖昧さ、向き合いの足りなさが明らかになる。すると、さほど気にならなくなる。諦めがつくからです。他人はぶっちゃけ見てません。他人はあなたの顔のパーツの形なんぞ99%見てません。1%、一瞬話題になったとしてもあなたのパーツなんぞぶっちゃけどうでもいいというのが本音です。試しにここの画面ではなく誰かの顔が映っているところなどを見てください。その人の眼とか鼻とかどうですか?みんなそうなのです。
「自分が何をやっているのか」ということを具体的にするとは、気になる所があるならばそれが気になってしょうがない=否定的な心のアクションをしている=「貶め行為」という心の行為なわけです。そういう思い方をしない・させない・二度と起こさない、ダメ、絶対。と戒めを作る。たとえばご飯を食べている時にはご飯を食べるということをやっているのですが、その気になることなんて忘れている時があるはずです。ふとした時に〇〇美容クリニックのCMなんかが流れてうっかり気持ちがそっちに向かってしまうだけ。自分の気になる所に関連付けて「気にし始める」。この「気にし始める」ということが邪悪の根源。単なるDISり、自分虐めです。さっきまで食べていたパンなり、ご飯なりは完全放置。目の前のご飯が色あせて自分をDISる。=そのことを「気にし始める」。こんな顔嫌だ、ああ、あの頃に戻りたい、お父ちゃんが殴らなければ、手術するごとに顔が変わっていく…、現在30代…、あと何年、容姿や美容に気持ちが向くのだろうか、99歳になっても気になるのだろうか、そのネガティブ自分虐めの念が問題なのです。一方、その時に背中や足の裏のこととか、二番目に気にしていたホクロのこととか、別の傷のこととか、髪型とか忘れていた!…でしょう?この「忘れている」=「忘じている」=「意識に上っていない」ということの中に実は大きな救いがあるのです。
芸人さんでも「個性的な」顔だちをされている方々がおられますが、あなたが気にするレベルをはるかに超えた個性的な顔立ちをされている方でも全く他人の目など気にしていない人たちはどうして平気なのですか?貴方が治すべきことはそこを悪く思い扱う負の意識です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

早朝からご回答頂きありがとうございます。そのような態度で挑みたいです。
しかし、今だと何もかもを顔に関連づけてしまい、前にこれをしたときはよかったのに...という考えに押しつぶされています。目の前の事柄に集中しようとしてもほとんどできず、水面下で絶望の念が続いています。夜中もうなされています。気にしないようにしようとしても、気にしてしまい...少しでも意識を強く持ちたいです。
他の人に聞くと顔はそれほど不自然には感じないとのことですが、自分自身が一番気になっています。多くの人からかなりの男前と言われており、容姿、とくに今回潰してしまった目や目尻にかなりの自信がありました。片側の良い方と比べてしまい、後悔、絶望、執着から離れるのが難しい状態です。
少しずつでも「自分が何をやっているのか」を本質的かつ具体的に見極めるようにするためには、どのような行動をすればよいでしょうか?質問になり大変恐縮ですが、ご回答頂けると幸いです。

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