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一度振った彼に…

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数年前に告白された男性がいて、元々友達としての付き合いが長かったため、その頃は私が彼のことを恋愛対象として見れず、告白をお断りしました。
元々の友達だった関係が全く無くなってしまうのも嫌だったので、その後は年に一、二回、私からの連絡でご飯に行ったりしていました。

私はその間に色々な恋愛経験をしましたが、ふとした時にその彼のことを思い出したり、今になってその彼の良さに気付く瞬間があり、もしかしたら今なら彼を好きになれるかもしれない。と思いました。
そして一年ぶりに彼に連絡をし、先日会ってきました。
一年ぶりに会うと凄く楽しくて、彼も私に誘われたことを嬉しく思ってくれていました。
そして今までは思ったことがなかった、「またすぐ会いたい」という感情が私の中にありました。

ですが一度振った身ですし、また会いたいけれど、あまり積極的に誘うのも気が引けてしまいます。
私はまた定期的に会って、自分の気持ちを確かめたいと思っているのですが、一度振ってしまった相手にアピールするのは、自分勝手でしょうか?

何かアドバイス頂けると幸いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

過去に縛られず今を生きる

ひな様

優譽と申します。僭越ながら質問にお答えさせていただきます。
私達は時間と共に様々な変化を起こします。
体も成長したり退化したり。心も常に変化し続けていきます。
 
数年前には魅力的ではなかった男性が、今魅力的に感じる事はありうる事です。
ひな様の心の変化もありうる事です。
  
過去の「告白を断った」という行いに今の自分を縛り付けるのではなく、今の思いを大切にされるのが良いのではないでしょうか。
男性もひょっとしたら好意を寄せてくださる事が嬉しいのかも知れません。
今の気持ちを男性に素直に伝えるのも誠実な対応なのかも知れません。
  
過去には戻れませんが、今を生き、未来に向かっていきます。
自分を裏切らず、相手を裏切らない良い選択をして下さい。
良い未来を迎える事を切に願っております。合掌

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個別相談可能
無学無才の愚僧です。 皆様との縁を大切にし、学ばせて頂きます。
共に学び、共に信じてゆく為の時間になれば幸いです。 あくまで浄土宗僧侶としての立場で対応させていただきます。 極楽浄土、阿弥陀佛、お念仏が中心となる事をご理解下さい。

彼も喜ぶんじゃないでしょうか

恋愛とは駆け引きとか勝敗とか優a劣で考えるから失われるような気持ちが生ずるのです。愛とはやがて条件付けや駆け引きがなく、純粋に相手の為にやってあげられるようになることです。そういう関係を築ける相手こそ最良のパートナーとなれる方でしょうから、どちらもお互いに向上し合う気持ちを大切に持って純粋愛としてお声かけをしてよいのではないでしょうか。一秒でも遅ければ彼の寂しさを埋める女性が寄ってきて彼の心をさらってしまうかもしれません。ここで迷っている時間よりも急いでサイトをとじる間もなく超マッハ光タップででご連絡を。
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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