hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

長崎対馬観音寺の仏像

回答数回答 2
有り難し有り難し 18

観音寺の仏像窃盗事件からもう10年になります。
仏像は文化財、美術品としての価値もありますが信仰の対象でもありますよね。

語弊はありますが宗派や説法によっては仏様は己の中にと説いたり、いやいや本陣の中におりますと言われることもあります。
もっと言うと釈尊は執着をするなと説いています。(乱暴な解釈ですが)
この執着と信仰は別物なのでしょうがいまいちわかりません。
執着、願い、信仰の違いがわかりません。

また、仏像がなくなることは仏教行事において何が困るのでしょうか?

もちろん仏像は観音寺に返還されるべきだと思っております。

2021年11月26日 22:20

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私も「観音寺に返還されるべき」だと思います

こんにちは。

仏教においてお仏像の役割とは何か、というご質問でしょう。

仏教各宗派ごとに御本尊とする仏様はそれぞれ違います。
また、その仏様と向き合って行者がどのような行を修するのかによって、御本尊(つまりお仏像)との関係は違います。

「執着、願い、信仰の違い」と書いています。
まず、「信仰」という言葉の使い方を仏教では基本的にはせず、信心という言葉を使うことが通常です。どちらかというと、「信仰」はキリスト教の価値観を含めて神仏を信じるイメージを包括的に言い表した言葉です。この意味で、「信仰」を他の仏教的概念と並べることにそもそも無理があります。また、信心も宗派によってかなり違います。

仏像と「執着」がどのように関係する、とあなたは考えているのでしょうか。また、ご自身がどんな行を実践する前提での問いなのでしょうか。それとも、知識の集積、教養としての仏教を学ぼうとした上での問いなのでしょうか。「願い」とはどんな願いで、何を目標としたものでしょうか。

このあたりのあなた自身の問題意識、背景がかなり漠然としています。
その意味で回答も自ずと漠然としたものになります。

「仏像がなくなることは仏教行事において何が困る」のか、という問いが書かれています。行の対象としてのご本尊、お仏像を前提とする宗派の行者にとっては必要であり、その意味では「なくなる」のは「困る」かもしません(そもそも、一時的にではなく持続的に「なくなる」という前提が限りなく低い可能性だと思いますが)。また、御本尊がなくても行を修することが出来る、と考える宗派もあります。

「長崎対馬観音寺の仏像」については、私も「観音寺に返還されるべき」だと思います。ユネスコ条約で、文化財の不法な輸出、所有権移転の禁止が定められており、この条約に日本は2002年、韓国は1983年に批准しています。この国際ルールに則れば、韓国政府は返還する義務があります。

そもそもこの事件は、韓国人窃盗団による盗難という刑法犯罪に端を発しています。盗難に遭ったものは盗難された側にまず返却する。先方の歴史的な見解はそれからであるべき、と考えます。

2021年11月27日 7:38
{{count}}
有り難し
おきもち

釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...
このお坊さんを応援する

教理的な部分の整理

 私も先の方の仰る通り,何のための問いかをまず明確になさる方がよいと思います。ただ,仏教には様々な教理があり,同じ教理にも様々な言い回しがあり,時には矛盾して思えることもあり,混乱しがちなのも事実かと思います。以下,教理的な部分を,字数の許す限り整理してみます。

【心の中か,仏像か】
 「仏様は己の中」という言葉は,我々は今は煩悩に覆われて苦しんでいるが,本来は仏の様に清らかな心を持つことを教える際に用いられることがあります。
 「仏様は『本陣の中』」という言葉は,恐らく仏像を意図なさっていると思います。この言葉は,苦からの解放を教える仏を,仏像として目で見て分かりやすくイメージし,その存在を確信してもらう為に用いられることがあります。
 上記はどちらも,苦からの解放へと人を向かわせる種々のアプローチの一環だと思います。

【執着、願い、信仰】
先に結論をざっくりと言えば,
・信心は,人に苦をもたらす根本的な欲望(「渇愛」といいます)の滅へと向かわせるもの。
・執着は,渇愛を増幅させるもの。
・願いは,信心,執着どちらの方向にも傾き得るもの。
という程に説明できると思います。以下,もう少し詳しく述べます。

【信心】
 まず,前の方のご指摘通り,仏教では「信仰」という語はあまり用いないと思います。以下,私も「信心」を用います。信心の中身は,「仏の教えは真実に違いない」「その教えを実践すれば自分も苦から解放されるに違いない」という思考です。信心は,これがなければ仏の教えの実践もないという,いわば原動力です。そして仏の教えの中身は,(阿含では)1. 「我々は苦しんでいる」 ,2. 「苦の因は渇愛である」,3. 「渇愛の滅により,この苦からの解放が実現する」,4. 「渇愛の滅を目指し,仏の教えを実践せよ」にまとめられます。ですので信心が向かう先は,渇愛の滅,苦からの解放です。

【執着】
 一方,執着にも種々ありますが,基本は,見目美しいもの,美味しいものなどに対して人が抱く,「もっと欲しい,もっと欲しい」という際限のない思いです。この思いが渇望を増幅させ,人を更なる苦へと導きます。

【願い】
 この語は,信心,執着どちらの方向でも用いられ得ると思います。苦からの解放を願えば信心に近づくでしょうし,「もっと欲しい」と願うなら執着に近づくと思います。

2021年11月27日 12:49
{{count}}
有り難し
おきもち

僧侶であり,とある国立大で仏教文献学を教える教員です。 かつて,僧侶...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

御忙しい中、回答ありがとうございます。

見事に見抜かれました。実はもう少し直接的な質問をしようかと思っていましたがあまり政治的な話になると良くないかと思い修正したらわかりにくい質問になってしまいました。

信心と信仰と用法、違いについて不勉強でした。以後気を付けます。

御仏像、ご本尊については宗派や行によってもかなりちがいがあるんですね!
勉強になりました。秘仏があったりオープンな仏像があったりで気になってました。

苦からの解放。肝に銘じます。

私自身何のために仏教を知ろうとしているのか解を得てません。
今の生活を捨てて得度するかと聞かれたらとその勇気はありません。
失礼ですがこういうところで質問したり本を読んで知った気でいる方が楽だからかもしれません。
読んでも身に成ってないようですが
しかし仏教の本を読んだりここでお坊様の回答を読んだりしてツライ時期を乗り越えられたのは事実です。

釋悠水さまありがとうございました。
名和隆乾さまありがとうございました。

「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

観音様へのお願い事について

とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。

有り難し有り難し 15
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ