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長崎対馬観音寺の仏像

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観音寺の仏像窃盗事件からもう10年になります。
仏像は文化財、美術品としての価値もありますが信仰の対象でもありますよね。

語弊はありますが宗派や説法によっては仏様は己の中にと説いたり、いやいや本陣の中におりますと言われることもあります。
もっと言うと釈尊は執着をするなと説いています。(乱暴な解釈ですが)
この執着と信仰は別物なのでしょうがいまいちわかりません。
執着、願い、信仰の違いがわかりません。

また、仏像がなくなることは仏教行事において何が困るのでしょうか?

もちろん仏像は観音寺に返還されるべきだと思っております。

2021年11月26日 22:20

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私も「観音寺に返還されるべき」だと思います

こんにちは。

仏教においてお仏像の役割とは何か、というご質問でしょう。

仏教各宗派ごとに御本尊とする仏様はそれぞれ違います。
また、その仏様と向き合って行者がどのような行を修するのかによって、御本尊(つまりお仏像)との関係は違います。

「執着、願い、信仰の違い」と書いています。
まず、「信仰」という言葉の使い方を仏教では基本的にはせず、信心という言葉を使うことが通常です。どちらかというと、「信仰」はキリスト教の価値観を含めて神仏を信じるイメージを包括的に言い表した言葉です。この意味で、「信仰」を他の仏教的概念と並べることにそもそも無理があります。また、信心も宗派によってかなり違います。

仏像と「執着」がどのように関係する、とあなたは考えているのでしょうか。また、ご自身がどんな行を実践する前提での問いなのでしょうか。それとも、知識の集積、教養としての仏教を学ぼうとした上での問いなのでしょうか。「願い」とはどんな願いで、何を目標としたものでしょうか。

このあたりのあなた自身の問題意識、背景がかなり漠然としています。
その意味で回答も自ずと漠然としたものになります。

「仏像がなくなることは仏教行事において何が困る」のか、という問いが書かれています。行の対象としてのご本尊、お仏像を前提とする宗派の行者にとっては必要であり、その意味では「なくなる」のは「困る」かもしません(そもそも、一時的にではなく持続的に「なくなる」という前提が限りなく低い可能性だと思いますが)。また、御本尊がなくても行を修することが出来る、と考える宗派もあります。

「長崎対馬観音寺の仏像」については、私も「観音寺に返還されるべき」だと思います。ユネスコ条約で、文化財の不法な輸出、所有権移転の禁止が定められており、この条約に日本は2002年、韓国は1983年に批准しています。この国際ルールに則れば、韓国政府は返還する義務があります。

そもそもこの事件は、韓国人窃盗団による盗難という刑法犯罪に端を発しています。盗難に遭ったものは盗難された側にまず返却する。先方の歴史的な見解はそれからであるべき、と考えます。

2021年11月27日 7:38
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有り難し
おきもち

釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...
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教理的な部分の整理

 私も先の方の仰る通り,何のための問いかをまず明確になさる方がよいと思います。ただ,仏教には様々な教理があり,同じ教理にも様々な言い回しがあり,時には矛盾して思えることもあり,混乱しがちなのも事実かと思います。以下,教理的な部分を,字数の許す限り整理してみます。

【心の中か,仏像か】
 「仏様は己の中」という言葉は,我々は今は煩悩に覆われて苦しんでいるが,本来は仏の様に清らかな心を持つことを教える際に用いられることがあります。
 「仏様は『本陣の中』」という言葉は,恐らく仏像を意図なさっていると思います。この言葉は,苦からの解放を教える仏を,仏像として目で見て分かりやすくイメージし,その存在を確信してもらう為に用いられることがあります。
 上記はどちらも,苦からの解放へと人を向かわせる種々のアプローチの一環だと思います。

【執着、願い、信仰】
先に結論をざっくりと言えば,
・信心は,人に苦をもたらす根本的な欲望(「渇愛」といいます)の滅へと向かわせるもの。
・執着は,渇愛を増幅させるもの。
・願いは,信心,執着どちらの方向にも傾き得るもの。
という程に説明できると思います。以下,もう少し詳しく述べます。

【信心】
 まず,前の方のご指摘通り,仏教では「信仰」という語はあまり用いないと思います。以下,私も「信心」を用います。信心の中身は,「仏の教えは真実に違いない」「その教えを実践すれば自分も苦から解放されるに違いない」という思考です。信心は,これがなければ仏の教えの実践もないという,いわば原動力です。そして仏の教えの中身は,(阿含では)1. 「我々は苦しんでいる」 ,2. 「苦の因は渇愛である」,3. 「渇愛の滅により,この苦からの解放が実現する」,4. 「渇愛の滅を目指し,仏の教えを実践せよ」にまとめられます。ですので信心が向かう先は,渇愛の滅,苦からの解放です。

【執着】
 一方,執着にも種々ありますが,基本は,見目美しいもの,美味しいものなどに対して人が抱く,「もっと欲しい,もっと欲しい」という際限のない思いです。この思いが渇望を増幅させ,人を更なる苦へと導きます。

【願い】
 この語は,信心,執着どちらの方向でも用いられ得ると思います。苦からの解放を願えば信心に近づくでしょうし,「もっと欲しい」と願うなら執着に近づくと思います。

2021年11月27日 12:49
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有り難し
おきもち

僧侶であり,とある国立大で仏教文献学を教える教員です。 かつて,僧侶...
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質問者からのお礼

御忙しい中、回答ありがとうございます。

見事に見抜かれました。実はもう少し直接的な質問をしようかと思っていましたがあまり政治的な話になると良くないかと思い修正したらわかりにくい質問になってしまいました。

信心と信仰と用法、違いについて不勉強でした。以後気を付けます。

御仏像、ご本尊については宗派や行によってもかなりちがいがあるんですね!
勉強になりました。秘仏があったりオープンな仏像があったりで気になってました。

苦からの解放。肝に銘じます。

私自身何のために仏教を知ろうとしているのか解を得てません。
今の生活を捨てて得度するかと聞かれたらとその勇気はありません。
失礼ですがこういうところで質問したり本を読んで知った気でいる方が楽だからかもしれません。
読んでも身に成ってないようですが
しかし仏教の本を読んだりここでお坊様の回答を読んだりしてツライ時期を乗り越えられたのは事実です。

釋悠水さまありがとうございました。
名和隆乾さまありがとうございました。

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