いつも有難い回答の数々を拝見しております、この度初めて質問をさせて頂きます。 半年ほど前、私の祖父が亡くなりました。豊山派の檀信徒であり、幼い私が泣くと仏教の教えを噛み砕いて教えてくれる優しい祖父でした。しかし晩年には認知症を患っていた事もあり、特に祖母には暴力を振るうなどしていたので家族からは次第に疎まれていました…。 そんな祖父でしたが、亡くなった後も祖母は仏壇に毎日お供えをして手を合わせています。しかし「お爺さんは死ぬまで有難うと言ってくれなかった」と少し悔しそうです。 そんな祖母に「お爺ちゃんはお浄土に行って、偉い仏様の教えを聞いて仏様になったよ。今までごめんね有難うって言ってるよ」と諭しましたが、「死んでも皆浄土に行けるなら、生前どれだけ悪い事をしても良い事になる」と不思議そうに言われました。 前置きが長くなってしまいましたが、祖父の生前の行いに罰があって欲しくも、浄土に居て欲しいと願う祖母に私は何と説明すれば良かったのでしょうか…
咳も出るのですが、アレルギーかアレルギー由来の喘息かストレス由来のどれかだとお医者様に言われました(ストレスの可能性が高いそうです)。 仏様と菩薩様に早く良くなる様にお祈りしたいのですが、どの仏様・菩薩様に祈ったら良いのでしょうか? お医者様の指示に従いながらお薬を服用しているところです。
浄土宗、浄土真宗の教義について質問させてください。ある本を読んでいたら浄土宗や浄土真宗の教義に良い事も悪い事も何もするなという教義があると書いてました。その本は宗教本ではないですが。本当にそういう教えがあるのでしょうか?あるとしたらなぜ良い事もしてはいけないのですか?お答えお願いいたします。批判、非難しているのではありません。
私は34歳で会社員として働いているものです。 出家する事についての質問です。 私は今まで人より良くありたい、という虚栄心で人に対する劣等感で生きてきました。そのため親しい人やパートナーなどはおらず、なぜ生きているのかよくわからない空虚な状態が続いています。 一時的な慰みとして飲酒、暴食などをして気を紛らわしますが虚しさを感じうつうつとして気持ちになっています。 仕事も順調とは言えず、自分の居場所が無いと感じ、この職場を去りたいと常に考えています。でもそれは逃げているのではないか?という葛藤があります 職場の方は良い人ばかりなのですが、私自身の問題で態度に出てしまうため自分に対して罪悪感があり、それが元気が出ない原因にもなっていると思います。 (いい歳してお恥ずかしい限りなのですが・・・) 気力がわかない状態が辛く、自分なりに考えたのが出家です。環境を変えて厳しい環境に飛び込めば自分を変えられるのではないかと一縷の希望をいだいています。 20代前半のころから生きづらさを感じ、強い興味を持ち仏教書などをよく読んでいました。(ブッダ、道元禅師、親鸞上人の著書)出家願望はあり、親などにも話しましたが反対にあい今まで生活をしてきました。しかし年齢を重ねて自分が人生をかけて学びたいものは仏教だという確信めいたものを感じていて、生き方として僧侶の姿勢を学びたいという気持ちがあります。 老いた時、病気の時、死ぬ時苦しみが襲ってきたときに苦しみを和らげてくれるのは仏教ではないかと考えています。また自分が辛さを感じて生きてきたため克服、寛解できたときに苦しむ誰かの力になれるのではとも感じています。 もちろん出家したからといって完全に救われるわけではないと思いますし、修行の厳しさや職業としての僧侶を成り立たせることの難しさも考えないわけではありません。このまま社会人として生活し、仏教を学びながら日常を修行として生活していく道もあることは頭ではわかっています。 しかし自分の中では、一度きりの人生、年を重ねて後悔して死ぬよりも、昔からやりたいと思っていたことをやるべきなのではないかと考えています。 皆様にとって、私が出家をしようとしているきっかけについてどう思われますでしょうか。 これは逃げでしょうか。発起心でしょうか。 ご回答いただけますとありがたく存じます。
いつも有難いお言葉本当にありがとうございます。 文字数の関係でタイトルが乱暴な表現で申し訳ありません。 決して他の、大切な方を亡くされた方に向けたものではなく、愚かな私自身のことです。 今回も私が殺してしまった犬ちゃんに関連する件でお言葉を頂戴したいです。 今まで何度も質問させていただいている通り、私は愛犬を殺してしまっています。 不慮の事故などではなく、私の勝手な思い込みなどや勘違いなどから苦しめた挙げ句に死なせてしまいました。 それに気づいたのは亡くなってからで、それまで自分はできることはしたと愚かな勘違いをしていました。 自分のせいで亡くなってからの、今更。 ペット用のお仏壇や仏具セットなどを購入しました。 常にお花やお供えも用意し。 祥月命日には火葬してもらったお寺に行き、お経を唱えてもらいました。 浅ましいことかもしれませんが、あのときにこれらのお金を遣っていれば、と悔やむ気持ちが溢れます。 当時お金を使ってきちんと環境を整えることができたのに、それをせず殺したくせに(なぜかそれで大丈夫と思い込んでいた) 今更になってお金を使って色々しても遅すぎるという気持ちが抑えられません。 あの子にはもう届かない。 このように亡くなってから色々することは、結局あの子のためにはなるわけではなく、遺された側の気持ちの整理のためにあるのでしょうか? それでも少しはあの子のためになるのでしょうか? 懺悔文や南無阿弥陀仏108回も毎日欠かさず唱えていますが、自分のためなのかあの子のためになっているのかもわかりません。 いつも申し訳ありません。 お考えを頂戴したいです。よろしくお願い致します。
もうすぐお彼岸ですが、納骨堂にお参りに行くかどうか迷っています。 去年まで、お彼岸はお参りに行かなければという思いでお参りに行っていました。しかし、最近、自分の子ども時代を思い出し、父方の祖父母からあまり可愛いがられなかったと思うことが増え、祖父母の納骨堂に行くと、心の中で文句やひどい言葉ばかり出てきたり、感謝の気持ちがしっかりと持てず、上辺だけの言葉を並べてしまいそうで行くのを躊躇しています。 子ども時代ではなく、今現在見守っていただいていることに対する感謝を言葉にすることも考えましたが、心の中は黒々しているし、見られて喜んでもらえる生き方など全くできていないので、見守られていると感じると恥ずかしく感じています。なのでこれからも見守ってくださいなんて言葉も言えません。 祖父母に感謝しなくてはならないのにしっかりとできていないのも申し訳ないです。 こんなこと思っているのが酷いのですが、毎年お彼岸を憂鬱に感じていて、お参りに行くのが嫌だと感じてしまっています。ですがお彼岸なのだから行くべきなのではという気持ちもあります。 アドバイスをよろしくお願いします。
こんにちは。 二つ質問させていただきたいです。 質問1 今年、貰ったお年玉を使って 仏像のガチャポンを沢山回してしまいました。 クオリティ高くて思わず見惚れてしまうレベルで… こういった、仏像フィギュアなどは どういった扱いをすれば良いですか? 質問2 私は絵描くことが大好きで 「もし菩薩様たちがお笑いコンビをしていたら」 というシチュエーションが思い浮かんで キャラクターまで作ってしまいました。 面白可笑しくする、これは良くないことですか? 拙い文章で、すみません。 どうぞよろしくお願いいたします。
いつも相談させていただき、本当にありがとうございます。 回答僧の皆様のお陰で、罪悪感に苦しみながらも日々の生活を送れています。 何度も質問しておりますが、私は一年前に愛犬を殺してしまいました。 その罪に気づいてから(初めは自分が殺したことにも気づいていませんでした)、今まで他にも数えきれないほどの罪を犯してきたことに気づきました。 hasunohaに出会い、仏教を少しづつ学んで知ろうとしています。 最近は私の今後の人生は償いのためにあるのだと思いながら生きています(これは私の勝手な考えです) 正しい言動を心がけ、ボランティアなどにも取り組んでいます。 しかし私自身や他の方の問答を拝見し、また、自分でもいろいろ学ぶうちに 私は生きているだけで罪を重ねていると感じます。 虫なども積極的な殺生はしませんが、知らぬうちに踏んだりして命を奪っています。 食べ物も命です。 私はお医者さまから指導されても飲酒もやめられません。(飲酒も罪ですよね) 話を盛ったりしてしまうのも嘘をつくことと同じです。 勿論食べ物は「命を頂きます」「ご馳走様でした」は必ず言いますが…。 罪を増やすことになるのにそれでも生きるのは、この世で生きることは修行ということなのでしょうか? 極楽にいくまでの修行が現世なのでしょうか?私は絶対地獄行きですが…。 宗派などで違うのは承知の上ですが、仏教の考えを教えていただけたらと思います。 どうぞよろしくお願いいたします。
祈願してもらった御札ですが 自宅で奉ったほうがいいでしょうか? 事情で奉れない場合は、お寺で預かる事も可能との事で、お寺にあったほうが いい方向にいくのではと思ってますが 御札に念というか入っている?のか。 長男の就職活動がうまくいく祈願なのですが。
タイトル通りですが、やる気の波がありましてどうしてもやる気が起きない、少々の良い波が来て瞑想を始めるが全くもって集中力がない。 強引に始めて押さえつけると自我が暴走する。瞑想が実にくだらないものに感じてしまう。 しかし次の波が来るまで待てば良いと考えてますので後は仏道の習慣化ですかね、特に問題視してませんが何かご指摘がありましたらお願い致します。 真なるお言葉をくださいませ。なければご対応不要です。 よろしくお願い致します。
こんにちは 初めて質問させて頂きます。 私は仏教徒ではないのですが20年前に所謂悟り?のような体験をし、以来あの素晴らしい世界観が忘れられず、同様な体験のある方が居るのか知りたいと考えていました。 そのとき、私は宇宙の銀河ような広大な空間に居ました。数多の光が輝き、私はそのうちの一粒の光として存在し、すべての存在と一体感を感じて満ち足りていました。 私達の住む物質世界のしがらみや生物の本能から一切離れて2つの全く違う世界が存在することを知り、目が覚めた思いがしました。 2つの世界の存在を知り、ここには書ききれませんが、如何にこの世界での欲や争いが無意味か知り、死が怖くなくなりました。また、2つの世界を繋ぐものは何か考えてきました。 理想的には皆があの体験をして世界の構造を知れば争いなどなくなるようにも思いますが、しかし実現不可能なことも理解しています。 仏教はこういった世界を体系的に表して広めようとしているものなのでしょうか。私は自分の体験が素晴らしいと思っていますが、どう伝えてもとても他人に理解できるとは思えません。 逆に体験した方にはすぐに伝わると思います。 また、私の他にも同様の気持ちの方は居たりするのでしょうか?
以前にご相談させていただきましたが、実家の菩提寺との関係が良くなく離壇の方向で住職と話を進めています。 菩提寺は真言宗智山派です。同宗派でお寺を見つけることができればよかったのですが、兄が学生時代にお世話になった先生が浄土宗の寺で住職をしており、葬儀社の信頼も厚く今後はそちらでお世話になろうと考えております。 ご相談に伺ったところ、菩提寺との関係がきちんと解消されれば入檀は問題ないとのお話を頂きました。 問題は菩提寺です。離壇についてお話ししたところ『戒名を返すように』との趣旨の話をされました。 授かっている戒名を返すとはどのような意味なのでしょうか? 菩提寺の過去帳から名前を消すこと? 位牌の戒名も新しい宗派で新たに戒名を作って頂かなくてはいけないのでしょうか? 菩提寺としては離壇を避けたいとの考えから離壇引き留めの色々な話をしてきました。 色々とわからない内容だった為、一度話を持ち帰りました。 転派と戒名についてご教授よろしくお願いいたします。
私は毎朝宗派は違うのですが、般若心経と13仏御真言、観音経を唱えています。これから光明真言もお唱えしようと思っています。 光明真言は毎日唱えて良いのでしょうか? 教えて下さい。 宜しくお願いします
私は母から虐待を受けて育ちました。 母は精神的に弱く、何かあると神仏に祈っていました。私は母の愚痴を聞いたり、母の言う通りのいい子になろうと頑張ってきました。 でも母は幸せになりませんでした。 私は母に連れられて神社や寺に行くとき、みんなが幸せになりますようにと祈っていました。私の4歳の娘もこないだ初詣に行ったら同じ願いをしていました。 母は何を願っていたのでしょう? 幸せになりたいわけではなかったんでしょうか? おみくじを先日引いたら 神の御手にすがりなさい。さすればあなたは救われます。 と言ったようなことが書いてありました。信じていれば本当に神様や仏様は私を幸せにしてくれるのでしょうか?
すでに亡くなって戒名を授かってる主人ですが、その戒名を変更するってできますか? 主人の戒名を付けた坊主は地域の昔からお世話になってる寺。でも、その住職が主人が死んだのは家(雨漏りするような築100年ほどの古民家)を建て替え、木を切って井戸を埋めたからだと侮辱するのです。葬儀のこともあるし、その坊主は義兄の友人でもあったので、一旦は我慢したのですが…。 一周忌を迎え、どんどん、嫌な気持ちが大きくなってきてしまって… 一周忌の法事は別のお寺さんでしてもらいました。 お墓の横の板にすでに主人の戒名は彫りこまれていますが、作り直しても良いと思っています。 戒名を変更するのは…良くないことなんでしょうか…?
いつもありがとうございます。 今回も私のせいで、苦しめた挙げ句に死なせてしまった愛犬関連の質問をさせてください。 約一年前に愛犬が亡くなりました。 何度も質問させていただいているとおり、確実に私のせいです。 ここには書いておりませんが、あの子の犬生は私のせいでつらく悲しい寂しいものでした。 あの子を死なせたくせにそのことにも気づかずのうのうと暮らしていた愚かすぎる私が、ある日突然その罪に気づきました。 自分が死なせたこと、苦しめたこと、あの子を振り回してつらく寂しい生き方をさせ続けたこと…。 そして、愛犬のこと以外にも本当に多くの罪を犯してきました。 それらのことはわかっていながら、たいして気にもしていませんでした。 本当に最低すぎる私ですが、罪を気にすることもなくのうのうと、むしろ幸せだとか思い込んで生きていたのです。 愛犬への罪に気付いてから激しい後悔と自責の念に襲われ、自傷や薬とアルコール乱用に苦しむ日々でした。 hasunohaに出会い、縋り、有難いお言葉をたくさん拝見し、仏教を知り、今までの罪を深く反省し過ごしています。 全く悟りなどとは程遠い私ですが、それでもせめて虫なども殺生しないよう、食べ物にも感謝し、間違った行いをせぬよう心掛けています。 毎日懺悔文を唱え一日の反省をしています。 こんなことで罪が消えるとは毛頭思っていませんが…。 前置きが長くなりましたが、愛犬への罪に気づかなかったら、今までの他の膨大な罪を反省することはなかったでしょう。 そしてこれからも罪を重ね続けていたと思います。 仏教の本を読んでいて愛別離苦に苦しむ人の話で「仏様が姿を変えて現世に来てくれ、気づかせてくれたのだ」というものがありました。 あの子が仏様だったと思うわけではありませんし、あの子の生まれてきた意味が私ごときのためにあるとは思えません。 それでも…あの子は愚かすぎる私に、罪に気づかせる役目を背負ってしまったのでしょうか? 苦しむばかりの生き方をさせてしまって、懺悔しかありません。
今現在、出家を考えている38歳、女です。私は今、鑑定師として勤めておりますが、ここまで到達するのに、17年かかりました。何故かと申しますと、言い難いことではありますが、過去にイジメの経験、性的な暴力、犯罪への誘惑、ネット上の誹謗中傷。言い切れないほどの様々な苦難との戦いだらけだったからです。出家したい理由は、欲や戦いから離れたい。嘘を付きたくない。心のざわめきは、もう疲れてしまいました。第二の人生を歩みたいと思っております。しかしながら、出家はどの様にしたら可能なのか、分からずにいます。 ご助言、お待ちしております。合掌。
いつも本当にありがとうございます。 今回も自分のせいで死んでしまった犬ちゃんに関連した質問をさせてください。 今まで何度も質問させていただいておりますが、 私は1年前に大好きな犬ちゃんを自分のせいで病気にさせ、獣医さんに言われていたことを勝手な思い込みから真逆のことをし、病気を進行させ、衰弱させ、死なせてしまう大罪を犯しました。 その後毎日hasunohaを訪れ、他の方の質問のお坊様からの回答や、私自身も質問させてもらい 「全ての命を大切にする」ことを誓いました。 虫などもなるべく殺生せず、食べ物には毎回感謝し頂いています。 しかし結局、わたしのそれは上辺だけです。 命の重さは皆同じ、そう思うようにしても、 大量に飛んでいる小さい虫を車でぶつけてしまってもさほど気にしないのに、もし人を弾いてしまったら法的にも罪になるから、そのほうが大きいことだ…。 そう考える自分も解せないです。 お坊様方はいつから、どのように、命の重さが皆等しいと思えるようになりましたか? 愛犬が気づかせてくれたのに、命を平等だと思い切れない自分が本当に情けないです。
今回も私のせいで苦しめた挙げ句に死なせてしまった犬ちゃんに関連する質問をさせてください。 いつもありがたいご回答をいただき本当に感謝しています。 未だに気持ちを切り替えられずに申し訳ありません。 頂いた回答は毎日読み返しては感謝と懺悔をしております。 一年ほど前に愛犬(と呼んでいいのかもわかりませんが)を亡くしました。 自分のせいで亡くなりました。 不慮の事故などではなく、私のせいで病気になり、その病気のことで獣医さんから再三言われていたことを勝手な思い込みから真逆のことをし、 苦しめた挙げ句に衰弱させ病気も進行させ死なせてしまいました。 世の中のどの飼い主さんよりも極悪非道な人間です。 そんな最低最悪なことをしておきながら、私は自分の罪に気づいていませんでした。 毎日病院に連れていっただけで、できることをしていたと思いこんでいました。 それどころか、死んでしまった愛犬のことは悲しいけれど、それ以外は毎日幸せだと思い生きていました。本当は自分が殺したのに。 自分が殺した、しかも苦しめた挙げ句に…ということに気づいてからhasunohaに出会いました。 毎日毎日たくさんのありがたいお言葉を見て、知らないことが罪だとも知りました。 そして罪に気付き懺悔や反省をすることが大切だとも知りました。 毎日、朝晩のお線香、 夜は108回の南無阿弥陀仏と我昔所造諸悪業から始まる懺悔文を唱え、 一日の反省と愛犬だけでなく全ての命への懺悔やお釈迦様へのお願いをしています。 (恐らく宗派などバラバラですよね、すみません) 食べ物(命)への感謝、一日の反省、もう罪を繰り返さないようにつとめる…等もお釈迦様にお話しております。 しかし自業自得なのですが、罪に気づいてから自責の念で本当に毎日苦しいです。 こんな言い方はどうかと思いますが、私が今更反省しても悔いても愛犬の命は帰ってきません。 だったら罪に気づかなかったほうが、こんなに苦しまず、幸せだと勘違いしたまま生きられたのではと思ってしまいます。 それでも、気づけたことはよかったのでしょうか? 文章もめちゃくちゃで申し訳ありません。
僧侶になる人の心構えを教えてください。 自身を修行の場に身を置き、一切言い訳や弱音を吐けない場所で仏教を学びながら、自分や周りの人生を仏教を学んだうえで豊かにしていけるのでは?と考えてます。 高野山の宿坊では宿業務の傍ら、僧侶になれます。と求人が出ております。 このような場所に身を置いて学ぶ事の想像が出来ませんが、どんな人間でもそれなりの精神的成長は見込めるものでしょうか? 今は都会で暮らしており、少し人生に疲れているところはあります。何事にも中途半端になってしまうところもあります。 ですが、高野山の宿坊を調べてるうちに、ピンキリとあり、結局のところお金が神様と考える資本主義の世の中から断ち切れるか?修行の場にも俗世の欲望や煩悩から切っても切れない場であるのか? 全ては自分次第だとは思いますが、何かアドバイス頂けたらと思います。 真言宗にしたのは高野山含めて昔から馴染みがあります。 あと人との関係性を築くのがあまり得意ではなく、大体独り行動が多くここまで来ました。医療系の仕事で業務の会話のみで成り立つ、女性に囲まれた環境が長かったです。 男性社会の人間関係はどのようなものかも実情を教えて頂けたら幸いです。 よろしくお願いします。
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