仏教との触れ方について相談です。注•長文、これより先は大正大に行きそびれた一在家の偏見、僻みによるものです。 以前念仏と密教について相談させて頂きましたが、その後その道にいけないことが現実的となり正直ヤケ気味でどうせ在家には密門はできないのだから、やれる所まで、難しい陀羅尼を唱えたり新義だの融通念仏だの華厳天台だの勉強しよう、はたまた徹底的にご利益信仰をしてやろうなど思っていました。仏様にご利益を頂いたことは何度かありますが、大正大行きが消えたことで今後の仏教との触れ方が曖昧になってしまっていました。さらに、いろいろ調べているうちに仏教の現状について少し疑念のようなものを持ってしまったのです。(在家出身の中には内心寺院出身にコンプがある人もいる、在家出は結局どこまでやっても自己満ではないか、天台宗某重大事件、日本仏教が全体的に現状維持或いは緩やかな衰退、密教においての在家と行者との大きな隔たり、そのため在家は糸目をつけない布施があってこそ…、真言密教は理念は大変良いが少し現状より理想が上回っていやしないか?、結局拗らせてオカルトやスピにいく人、事相家になる人、上座部、哲学方面にいく人…etc)何様のつもりかと言われればその通りですが色々と考えてしまいました。 最近仏教についてネットで調べていたら信心深い人ほど真言陀羅尼から離れよう唱えまいとする、という文言を見ました。またこの数日で水上勉の「良寛」を読み現実と地続きの禅師の生き様、慧能禅師の本来無一物の法語がもの凄く印象的でした。また、自分は智山派推しですが、客観的に詰まるところ仏教は座ることが究極ではないか。禅定こそ最終形態、本来の仏法を秘めているのでないか?と直感に思った次第です。 さて、自分はこれからご利益信仰と独学の学解と自分で納得したお勤めをしていくか、それとも今まで頭に入れた知識をひとまずすべて放り投げてただ座るべきか。ロクに護摩祈祷も坐禅体験もしたことがない頭でっかちですが密教、禅宗のお坊様にアドバイスいただけると幸いです。大変失礼な放言をいたしました。
はじめに、私は現在高校生でまだまだ未熟な身です。 あやふやな質問になる可能性がありますが、ご了承下さい。 私は先日友人とこんな会話をしました 私「年末皆んなで集まって年越ししよーよ!」 友人「いいよー!あっでも私今年喪中だからあけおめって言えないわ、ごめん皆んな〜」 私はとてももやもやしました。 私の中だと、喪中というのは亡くなった親族を思って悲しみ、乗り越える期間ではなかったか? それを理由に本来お祝いしたいところを我慢して祝わないというのは少し違うのではないか?と 文化というより強制的な感覚がしました。 あくまで期間内に乗り越える事を目的として、その期間中はお祝い事は避ける、 そして自分の中で死を乗り越え、決別がしっかりついた時、そこを持って喪中は終わりではダメなのですか?
お世話になっております。 引き続き救われる道を探して仏教を学んでおります。 梵網経を知り六十二見について考察しております。 その中で断見というのがあります。 例え断見が邪見としても、法や因縁なるものを断ち切っても、断滅した方が得ではないでしょうか? その点はどうお考えか、皆さまの内なる仏にお伺いしたいと思います。 「これこれこういう理由で断滅しない方が得ですよ。」というのを明確に提示できれば、私も含めた衆生を皆救うことができると思いませんか?
こんにちは。お尋ねさせてください。 お坊さんに法事をお願いする際「南無大師遍照金剛」と唱えてくださるのですが、いつもぼんやりとした違和感を抱いています。 言葉を紐解くならば 南無=信じる・帰依する・敬礼する→うんうん 大師=偉大な菩薩や仏に対する敬称→はいはい 遍照金剛=弘法大師・空海の灌頂名→んん?? 「仏さま」じゃなくて「宗祖=弘法大師」の方を信じるの? ……という疑問が沸き上がります。 南無阿弥陀仏=阿弥陀仏を信じます、帰依します。 南無大師遍照金剛=宗祖の弘法大師を信じます、帰依します。 遍照金剛=真言宗における最高位・大日如来の別名で、念仏で崇めることが信仰の示し方……だそうです。宗祖が仏さまにまでなったことも驚きですが 「大日如来(遍照金剛)=弘法大師」 という図式が未だによくわからないのです。 なので「南無大師遍照金剛」という文字列を見聞きする度に 「弘法大師さまに帰依したいワケじゃないんだよなあ」 というモヤモヤが残ります。 無知故の煩悩でしょうか、スッキリできる方法は何かあるでしょうか。 ご回答、よろしくお願いいたします。
(5歳息子の代筆です。子どもの質問で恐れ入りますが本人はいたって真剣です。) 人は死んだら六道のうちどこかに行くと聞きました。僕はまた人間に生まれ変わりたいです。 ・人道に行ける人はどれぐらいいますか。 ・どうしたら人道に行ける可能性が高くなりますか。 ・死ぬのがこわいです。死なない方法はありますか。 ・死なない方法がない場合、どう毎日を過ごしたらいいですか。 よろしくお願いいたします。
仏様、神様、閻魔大王様、お地蔵様、そして神様の教えや思い、仏様の教えや思い、閻魔大王様の教えや思い、お地蔵様の教えや思いを冒涜するような言動が頭によぎったり、口にしたり、態度に示したり、行動したり(仏像を壊すようなことはしていないが、何らかの拍子でやってしまうのではないか、知らない間にぶつかっていたのではないかなどが不安)、思いついたり、考えたりしてしまいます。地獄に落ちるのが怖い。悪道に落ちることが怖いです。 例えば死ね、くたばれという言葉を動画とかで聞くと条件反射的に仏様と連想してしまう。地獄に落ちるのが怖い。悪道に落ちることが怖い。そして仏様も神様も閻魔大王様もお地蔵さまにも滅びることなく我々を見守ってほしい。この考えは心からのものなのに冒涜するような言動を反射的に頭によぎらせたり思いついてしまいます。地獄に落ちる恐怖で迷っている状態です。冒涜するような言動が頭によぎったり口にしたり態度に示したり行動したり、思いついたり、考えたりするたびによくない。間違っている冒涜してはいけないと否定し、撤回するだけでは足りないでしょうか?
本能や欲求に抗う、又は無にする事は可能ですか?
真宗大谷派ですが、阿弥陀さん以外の仏様(観音様、お不動様など)や神社も大好きです。真宗は阿弥陀様以外を拝まないないと知りつつ結構真剣に拝んでしまうことに後ろめたさ?を感じています。このモヤモヤ感を何とかしたいです。
最近、大乗仏教における功徳と回向をよく考えるのですが、釈尊は慈悲と智慧だと仰っていたと思いますが、原始仏教ではなく現代のお寺様は何が1番の功徳になり得ると思いますか?1番とかを考えるのはあまりしない方が良いとは思いますが、何が良いのかを考えてしまいます。
私は仏教音楽が好きでたまに聴きますが、聴いているうちに自分でも通しで声明や御詠歌がやってみたいと思います。 経本をみれば和讃は地蔵和讃や光明和讃、大師和讃など、たいてい七五音×四句で一曲だと発見しました。しかし自分の智山派の密厳流や高野山の大師和讃などは全体が似ているようで微妙にフシが変化して曲が進みます。自分には博士が読めなくて難しいし、定められた曲以外に転用できないのでちょっと残念です。妙心寺派では坐禅和讃を平坦に読んだり観音和讃を真言宗の追弔和讃のフシで四句一曲で唱えたりするようですが、よそ様の曲を唱えたりしても良いんでしょうか? 既存の曲をやりやすくアレンジもしようと思えばできましょうが我流は抵抗があります。 追伸 各流派は大和流を持ち帰って、各自で研鑽したようですが、自分はセンスがないのでどうせなら共通でわかりやすいものを残してくれたらよかったのにな…あんまり難しい複雑な曲がたくさんあったら、しまいには失伝してしまわないのかな…などと余計な愚痴を考えてしまいます。
こんにちは。お坊様に質問があります。 今年の6月25日から10月29日迄、週に一度介護の研修に行き、合格しました。 「無事に研修を終え合格しました。」と菩提寺とご先祖様に報告いたしました。 その際、菩提寺にお塩1キロと塗香を一つとご先祖様にお線香を二束、お供えしました。 問題は無いでしょうか?
ふと感じたのですが、仏教の視点として苦しく痛い状況でも、考え方次第ではひょっとして個人の頭の中で楽しみに変えることも出来たりするのでしょうか。 これはかなり高度な修行をしないとかもですが、極端に言えば「たとえ歴史上ある苦痛を与えるもの」を受けるハメになったとしてもです。 そしてそれは瞑想と言うものになるのでしょうか。もしくは修行となるのでしょうか。 世の中結局、脳みそ次第でどうにでもなるのではと思いました。
真言宗智山派の僧侶目指してます。真言宗智山派のホームページ見ると出家得度とは父母と別れを告げる儀式とありましたが出家したら悲しみますか?
久しぶりに質問させていただきます。以前相談させていただいたことは、おかげさまでその後少しずつですが好転の方向に向いてきました。私自身の考え方とも少しずつ向き合って、まだ苦しむ時間は少なくありませんが、自分の考え方の癖に気づくことも増えてきました。 今日は、昨年から通っている、とあるスクールの考え方について質問します。 そのスクールは仏教系で、創始者はお坊さん、その弟子で現在の経営者兼講師の方は得度しています。経営理念は仏教の慈悲で、講座のたびに時間の半分以上を使って仏教の心構えを教わる時間があります。 私も受戒しており、そのこと自体はかまわないのですが、経営者の方の教え方は、仏教用語を使わずに仏教的精神を持った人間を育てようとするもので、多くの受講生が教えられることを上手く飲み込めずにいます。 受講生の中には仏教徒もいますし、そうでない人もいます。仏教についてよく知らない人には、話されていることが難しくてわからないこともあるようです。 そのスクールではお寺でボランティア活動や法要に参加することがあり、仏教の精神に基づいて行動するよう求められるのですが、多くの人がどう振る舞えばいいのか迷いながら活動しています。 中には仏教について無理解な発言をしてしまったり(たとえば生前受戒した人に対して、「いつでも死ねるね!」など)、場をわきまえない行動をしてしまったりして、お檀家さんの中には白い目で見る人もいます。 講師の方がなぜそうしているのかはわかりません。自分は仏教用語を使わずに教えられたからなのかもしれません。 ただ、言葉を使わずに中身だけを伝えて、仏教の精神を体得した人を育てることは可能なのか、疑問があります。お坊様方のお考えを伺いたいです。
こんにちは。 初めて質問させていただく者です。 2つ質問があります。 今年私は高野山で結縁灌頂を受けさせていただきました。仏様と縁を結べたことは大変ありがたいのですが、その後の自分がそれに適う生活ができているか、正しい道を歩めているか疑問です。自分の良く無いところがどうしても出てしまいます。果たしてこんな自分でも仏様との縁を保ち続けることはできるのでしょうか。 また、仏様と一体となったと伺ったのですが、これは即身成仏とどんな関係があるのでしょうか。 初心者の質問で恐縮ですがご回答いただけましたら幸いです。
お疲れ様です。 学校の調べ学習の課題で、仏教について調べています。 基本的な理念は何なのか? 何を目指すのか? そのために何をしているのか? 色々とインターネットを用いて調べてみましたが、その中で特に「仏教の重要点(おそらく四法印の内容)」と「八正道の正念・正定」がいまいちよく理解できませんでした。 ↓↓↓ お釈迦様は「物事は常に苦しみの連続、なぜかというと自己も、周囲も、物事も、環境も不変のものがないからだ。だからと言って、そこから離はようとするのもまた苦しい道なのだ。」と気づきました。現代仏教でもそれは色濃く残る重要な概念です。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 正念:正しい心の働きを感じること 正定:心を統一し安定させること と書いてありましたが、どういうことだ…?となっています。 ・重要点に対する解説 ・正念、正定の解説 また、皆さんの思う今を生きるのに役立つ仏教の重要な点もよければ教えていただきたく存じます。 よろしくお願いします。
真言宗系の単立寺院で得度、受戒、四度加行、伝法灌頂を行っているところが多くありますが、高野山真言宗では本山以外のお寺や現代入ってから立ち上げられた新しいお寺でもそれらができるところがあったりします。 その事からか、非法人のお寺があったり自宅や店舗等で僧侶としての活動をしている方もしばしばいらっしゃいます。 こう言うのは本山から許可灌頂を授からないと出来ないのではないのですか?それとも、僧籍がありながら個人事業主みたいな形で宗教活動することもOKですか?
いじめ行為は実際の所、何地獄におちる可能性の高い罪なのでしょうか? チャットGDPに聞いたらその人の仏性を傷つける行為で無間業(五逆罪)に近いから無間地獄に落ちると回答が来ました。 お坊さんはいじめの罪はどの地獄に該当すると思ってますか? いじめと一言で言っても色んなタイプがありますが私が今回お尋ねしたいのは、いじめ行為で被害者が自死を選んでしまっりトラウマからPTSDや適応障害などで人生を壊されて苦しんでしまった場合です。 回答お待ちしてます。
僕は家がお寺じゃ無いですが真言宗智山派の僧侶を目指しています。理由は色々ありますが仏教の教えに感動しこの教えを深めたいと思ったからです。しかし最近悩み事があります。僕は仏教は好きですがスピリチュアルは大嫌いです。SNS見ると最近真言宗智山派の僧侶名乗るスピリチュアル系の人が多いです。真言宗智山派はスピリチュアルなんですか?また前に智積院のホームページ見た時スピリチュアル講座??的なのがあったのが覚えてます。現役僧侶の方回答お願いします。また仮に真言宗がスピリチュアルじゃなくても親が勘違いしないか不安です
現代物理学には「ホログラフィック仮説」というものがあります。 これは、「私たちが実際に存在していると思っている宇宙も、実は宇宙の“境界(例えば宇宙の外縁)”にある二次元的な情報の投影である」というものです。 この仮説から、我々の物質世界は実はアカシックレコードにある情報が物質化されたものだと考えることができます。 また、過去から未来に流れる直線的な時間というのも実際には存在しておらず、情報が物質化されることによって、まるで時間軸に沿って物事が成立しているように感じられるのだと思います。 哲学者のベルクソンは、時間を「過去が現在に溶け込みながら未来を生み出す連続的生成」と考えました。 そして、世界の本体は「イマージュ」であり、それが外側に展開したものが「物質」、内側に沈潜したものが「記憶」であると考えました。 また、我々の「脳」は、思考を作り出しているのではなく、「純粋記憶=情報」の中から我々の行動に役立つものを選び取っていると考えました。 これらの議論から、私は肉体的な輪廻転生はないと思います。 アカシックレコードにある「純粋記憶=情報」が物質化されたのが我々の生きる世界であり、輪廻転生とは「純粋記憶が物質世界に現れること」を言うのだと思っています。 三島由紀夫は「未来からの輪廻転生も考えなければならない」と言いましたが、これは以上の議論を踏まえたことだと思われます。 また、私は仏教の無我の思想は正しいと思いますが、一方で人間の「魂」の存在も信じたいと思っています。 古代中国には「魂魄」という概念がありました。 「魂」は精神を支える陽の気で、死ぬと天に昇るとされました。 「魄」は肉体を支える陰の気で、死ぬと地に帰るとされました。 私の考えでは、「魂=宇宙」であり、アカシックレコードの情報から脳が選び取ったものを「魂」と考えれば、仏教の無我の思想と矛盾しないと思います。 (魄についてはよく分かりません。) さらに、「生命」についてはシュレディンガーが言ったように「負のエントロピーを食べる存在」であり、暗黒流体という負のエネルギーによって成り立っていると考えています。 これらは全て、執行草舟氏の思想をもとに考えました。 私が言いたいのは「古典的な仏教の世界観だけでは、宇宙や世界を説明するのに不十分ではないか」ということです。 ご回答よろしくお願いします。