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仏教
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諸行無常とは?お坊さんが解き明かす「全てのものは常に変化し続けている」

仏教の教えのひとつ「諸行無常」。世の中の真理をシンプルに表した言葉です。しかしながら、「シンプルどころか難しい!」そう感じてしまうのも仏教用語ですよね。
 hasunohaにも、仏教用語への質問がたくさん寄せられます。仏教に興味はあるものの、教えをどう理解し活かせばいいのか…分からずにいる人は多いのです。

そこで今回は、寄せられた相談の中から「諸行無常」を取り上げ、その意味や言葉の真理に迫ってみたいと思います。

諸行無常って何ですか?

全てのものは、今この瞬間にも移り変わっているのでしょうか? 無常とはなんですか?

辞書によると諸行無常とは、『この世の万物は常に変化して、ほんのしばらくもとどまるものはないこと。人生の無常をいう仏教の根本的な考え。』(出典:新明解四字熟語辞典)と解説されています。

相談者のあやめさんは、「諸行無常」の意味を知っているものの、理解が深まらない状態。ここが、仏教の難しさですよね。「諸行無常」への疑問をシンプルに問いかけたあやめさん。この相談に対するお坊さんたちの回答をご紹介します。

全てのものは、今この瞬間も変化し続けています

新品の自動車はどんなに大切にしても、だんだん古びていきます。 あらゆる動物の赤ちゃんは、子供になり、青年になり、大人になり、老人になり、いつかは死去します。 (中略)すべての、物質、すべての存在は、常に周囲の環境とお互いに影響を及ぼし合い、常に変化しつづけます。
(因速寺 釋精徹)

硬い金属でもいずれ錆びる。今この瞬間も、周囲の環境に影響され温度が変わったりする…。こちらのお坊さんは具体的な例をあげ、「この世界に不変な存在は何一つないこと」を教えてくださいました。また、人間の心も例外ではないとおっしゃっています。

人の心も常に変化し続けています

人間は、外界の環境を、感覚器官で感覚し、その情報を脳で処理して、考えたり感じたりしています。 人間の身体も、常に変化し続けていますし、周囲から受ける情報も常に変化しつづけています。
(因速寺 釋精徹)

全てのモノ・コトは、それぞれ、色々と他に依存することによって成り立っており、依存しているがゆえに、ある意味で不安定であり、依存している色々なモノ・コトによる因縁(原因と条件)次第で、変化していくものであるということになります。
(岩瀧山 往生院六萬寺 川口 英俊)

目には見えない人の心も、今この瞬間、変化し続けている。そしてそれは、「影響し合っているからこそ起こる変化」だということですね。お坊さんは、この真理が「諸法無我」「一切皆苦」とも密接に関係していると教えてくださいました。
 

不変の実体的な魂のような存在は存在しないのです。 これを、漢語では、諸法無我といいます。諸行無常と諸法無我は、密接に関係しています。(中略)また、仏教は「一切皆苦」といいます。 生きているとは「すべてが苦」という事実です。(中略)「一切皆苦」と「諸行無常」も密接に関係しています。
(因速寺 釋精徹)

元の問答:諸行無常って何ですか?

相談者のあやめさんは、小さな変化の分かりにくさを感じつつも、お坊さんたちの丁寧な回答に感心されたようです。

私たちは、大きな変化や年単位の変化は分かっても、「今この瞬間も変化し続けている」ということには気付けないものですよね。それに気づかせてくれるのが、諸行無常という言葉なのです。


では私たちは、この真理をどう受け止め、活かしていけばいいのでしょう?その答えは、次の『永遠の愛は存在しますか?』という問答の中にありました。

永遠の愛は存在するのでしょうか

好きな人と念願かなって付き合うことができた夏月さん。毎日幸せな気持ちで一杯なはずなのに、いつかこの関係が終わってしまうのではないかと相談されています。

もちろん、今ある幸せは、全力を尽くして大切にします。
それでも、相手の気持ちが離れていくことが怖い。

この気持ちを忘れることが怖い。
やっとつかんだこの幸せが、いつかこぼれてゆくことに怯えてしまうのです。どうか、彼と少しでも長く一緒にいるにはどうするのが最善か、教えて下さい。

「永遠の愛」というテーマに、お坊さんたちは「諸行無常」の真理を引用した回答をされています。

常に変化するからこそ今できることを精一杯行い、生を充実させましょう

諸行無常といいます。 全ての事は常では無い、永遠に続くものは存在し無いという事です。だからこそ、今という時間を大切にするのです。
(圓常寺 三宅 聖章)

こちらのお坊さんは、「永遠の愛は存在しない」ことを説き、だからこそ今を大切にしましょうとアドバイスしてくださいました。

諸行無常だからこそ「永遠の愛」はあり得ると考えます。(中略)永遠とは常に変化する「今」の連続性の先にあるものです。 「永遠の愛」にするかどうかは、お互いの心遣いです。
(法華寺 讃岐英昌)

こちらのお坊さんは、諸行無常だからこそ「永遠の愛はあり得る」と説いています。捉え方により、「諸行無常と永遠の愛」に対する解釈も違ってくるのですね。しかし、ふたりのお坊さんが言わんとすることは同じです。

 

「変化するからこそ愛を育んでいくこともできる。だからこそ、今できることを精一杯行うことが大切」だとおっしゃっているのです。

 

元の問答:『永遠の愛』は存在しますか


私たちは「変化」について、いろいろな感情を抱きますよね。あるときは変化に怯え、あるときは変化することを望みます。勝手に「変化しないものだ」と決めつけてしまうこともあるでしょう。しかし事実はひとつ。「全てのものは、常に変化し続けている」のです。

「諸行無常」という言葉に託された教え…。それを学び、人生に活かすことができるのもまた、私たちが変化していくものだからですよね。
 
仏教の言葉は、難しいようでいて実はシンプルです。hasunohaでは、仏教用語への疑問も、お坊さんたちが優しく解き明かしてくださいます。あなたもhasunohaで、仏教の教えに触れてみませんか?

文・hasunoha編集部
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「諸行無常」問答一覧

生家がなくなる

お忙しいところ恐れ入ります。 生家がなくなる寂しさについて、乗り越え方や考え方のヒントを頂戴したくご相談させてください。 この度両親が定年退職し、まったく縁のない地方に移住することになりました。 新居も購入済みで、本人たちは第二の人生ということでワクワクしているようです。 当然ながら実家はそのうち売りに出され、私には帰る実家や地元に帰る意味がなくなってしまいます。 地元が大好きで心の拠り所としていた私にとって、生家がなくなることは思っていた以上に辛く、なんだか宙ぶらりんになるような心地で辛いです。 (今は結婚して居場所もあり幸せではありますが、自分のルーツが無くなる感覚がとてつもなく寂しいです) 親本人たちが幸せなことが一番ではありますが、毒親で振り回されていたこともあり、「また振り回されるのか…」と思ってしまう面もあります。 いずれ年老いて親は先立ち、みんな遅かれ早かれ実家はなくなるものだと思いますが、まだアラサーです。 周りは慣れ親しんだ実家に帰って安心することができるのに、私はできない。 帰る場所が物理的に消える。 大事な柱を一本失ったようで、どうにも寂しく、内心受け入れられません。 実家や地元に対する執着だと思いますが、仏教ではどのように考えて気持ちを手放すのでしょうか。 ヒントをいただけますと幸いです。

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諸行無常、生きている人の心のあり方

亡き母は、ある事業を運営していましたが、まだこれからという時にがんがわかり、あっという間に亡くなりました。 子供の頃から情熱的に活動していた姿を見てきたので、どんなにか残念で、悔しかったことと思います。 私はすでに他の仕事をしていたこと、また、子供個人の幸せを願ってくれましたので、事業は継がず無くなりましたが、母の情熱、精神は忘れることはできません。 それから数年経ち、その経験は、自分の新しい仕事に活かしています。 いましんどく感じているのは、その業界でいわばライバル的存在だった事業が活動をしていることです。 その関係者とは、もと協力関係にありましたが、トラブルがあり、仲違いしました。気に入らない利用者は満足に面倒をみない等、自分勝手な事が多々ありました。 不誠実さを糾弾すれば、足並みを揃えないほうが悪いと。貸したものも返してもらえないままでした。母は不毛な争いを避け、思いやりを大切に、最後までこつこつ活動を続けました。 真面目に取り組んできたほうは追いやられ、力尽きてしまい、ずるいあちらはなぜいい思いをしているんだろう。そう感じてしまいます。 今でも時々夢に出てきて、むなしく思います。 利用している方々は悪意はないのでしょうが、付き合えるということは、自分勝手な人の集まりなのかも、と感じます。 事業に関わった多くの物品、思い出の品々も、捨てられず、そのままです。利用している方々のためにお譲りして、使っていただけたらとも思いましたが、あちらにお渡しするのも考えられません。 この気持ち、思い出、思い出の品々、 受け入れ方、消化の仕方、なにか手掛かりになるお言葉をいただけますと幸いです。

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大学受験間近の受験生です。 文には至らない点があるかもしれませんが、ご了承ください。 私の受験が近づいていくにつれて、親も私も不機嫌になったり口論することが増えていきました。その度に毎度「昔(幼少期)に戻りたい。」「祖父母がまだ元気で、仲の良かった親戚たちと定期的に集まっていたあの頃に戻りたい。」など過ぎた温かい記憶に縋ってしまいます。悲しくなって、ふと目に入った私が幼少期の時に母がせっせと作っていたアルバムを見て、大好きな母からの愛を改めて実感しました。しかし、今目の前にいる母親は、私が絡めば絡むほどやっぱり不機嫌になって向こうを向いてしまいます。それがとても悲しいです。私に勉強してほしいのは十分わかっていますし、母も仕事で疲れているのもわかっています。自分の合格が一番の親孝行というのも分かっています。 だらだらと前置き失礼しました。私の最も不安なことは、上手く言えないのですが、時間が自分の周りの環境をゆっくり壊しているような気がする事です。 今までの家族の幸せだった思い出と全く同じ体験はできず、また、これからの人生体験する楽しいことが全て「楽しかった過去」に変わっていくことにひどく虚しさを感じます。 まだ子供のくせにと思われるかもしれませんが、無常というこの世であたりまえであるものが受け入れきれません。 私はやはり考えすぎなのでしょうか? 時間が経つということが怖くて虚しいものだとマイナスな考え方をしてしまいます。 無常観についてどう考えるべきなのでしょうか?

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「無常」について理解出来た気がするが…

初めて質問させて頂きます。長文になってしまい申し訳ございませんが、宜しくお願いします。 私は歴史が好きなのですが、とりわけ源平合戦が好きです。二つの氏族が覇権をかけて争う中での栄枯盛衰や、その過程での日本中を巻き込んだ争乱の数々。これ程までに歴史のダイナミズムを感じられる出来事は中々無いと思ったからです。 なので、先日神戸に行った際、一ノ谷の戦いの戦跡を巡ろうと思い立って観光し、道中、是非見たいと思っていた須磨寺に立ち寄りました。須磨寺には、宝物として平敦盛の武具や青葉の笛が置かれていることが有名ですが、これらを見た時、私は非常に大きな衝撃を受けました。 勿論、平家物語の「敦盛最期」は作中屈指の有名な悲話として、私も知ってはいました。しかし、それはあくまで「物語」としての認知に過ぎなかったのです。知識としては現実に起きた事だと知りつつも、現代とはあまりにもかけ離れた武士たちの世界観や壮絶な出来事の数々に、実感としては完全に物語上での出来事でした。 ですが、敦盛の遺品と、敦盛を殺した苦悩から出家した熊谷直実が、彼を弔うために書いた「南無阿弥陀仏」の掛け軸は、実際に寺にあったのです。 こうして、到底現実の出来事だと実感出来なかった源平合戦を、現実の出来事として否応なく突きつけられ、私は恐ろしくなりました。平家物語に登場し、様々な運命を辿った武将たちの人生もまた現実の物だと、同時に思い知らされたからです。 都での優雅な生活を捨て、戦いに身を投じる事を憐れみつつ奮戦して亡くなった者。戦いに勝利しつつも、哀れにも反逆者となり亡くなった者。戦乱の中で志半ばに自害した者。そして、熊谷直実のように出家した者。 また、源平合戦だけでなく、数々の戦争や動乱に人生を左右された無数の人々…。 歴史という大きな流れの中で翻弄されていく人々が現実に居たのだと、心から実感出来た時、歴史の中での個人の無力さと儚さに恐怖を感じ、平家物語が言わんとしている「無常」を、心の底から理解出来たような気がしました。 果たして、無常について理解出来たようなこの感覚は、悟りに近いような物なのでしょうか? 仏門に入ってもいない者が、軽々しく悟りなどと申し上げるのは気が引けるのですが、世の中に対する一つの見方が生まれたような感覚が不思議だったため、質問させて頂きました。

有り難し有り難し 5
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