見たくないものほど気になってしまう
「浮気の末に酷い振り方をしてきた相手からの最後のLINE(トーク一覧で冒頭だけ読む限り、まるで悪びれる様子が無い)」のような、読むことで確実に自分の気分を損ねることになるが、でも「悪いことが書かれてある前提で、それがどんな内容でどの程度なのか気になってモヤモヤする」対象があるとします。
私はこういう時、我慢できずに見て、そして後悔することが多いので、相手をブロックした上で「その対象(最後のLINE)の存在」も記憶から消せたらどんなにか楽だろうと思います。
対象の中身に執着せず、キレイに忘れる方法。
また、「見なくても人生に影響しないもの」はスルーし、できる限り「自分の心を楽しませるもの」に多く触れて心豊かに暮らす方法をご教示ください。
【補足】酷い振り方〜の話はあくまで例えであり、このたび実際にそういう経験をしたわけではありません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
全てが瞬間の出来事です
こんばんは。人生で出会う物事に、選り好みは殆どできません。「勉強して〇〇大学へ行く」程度はできるかも知れませんが、「そこでどんな人に出会うか」は選べません。「今、青信号になっている横断歩道」を渡るか止まるかの選択はできますが、その結果…良いことが起こる保証はありません。渡れば電車に間に合うかも知れないし、止まれば交通事故を避けられるかも知れないですが、それは「後にならないと分からないこと」です。
そう、大概のことは「結果は分からないけれど、今の行いは結果に繋がっている」のです。
質問をよむと、どうやらあなたは「執着しないことが大切」とお気づきのようです。しかし行動というのは「〜しない」という否定形ではあまり機能しないものです。(象の姿を思い浮かべないでください、と言われても困りますよね)。
執着しない、というのは「すべては瞬間に起こり、そして過去になっていく」と明らかに知ることです。なので「心豊かに過ごす」ためには「何に触れるか」ではなく「どのように触れるか」が大切なのです。例えば好きな花があったとしても、それを眺めていられる時間は限られています。枯れなくても風に飛ばされるかも知れません。摘んだらたちまち萎れてしまうかも知れません。
だから、楽しいことに出会ったら「嬉しいなぁ」とその瞬間を味わい、辛いことがあったら「辛いなぁ」とその瞬間を悲しみ、また次に心動かされるものに移っていく。五感の移ろいを正直に受け止めていく。「好きなものを手放したくない」こそ執着です。「いつまで手元にあるだろうか、いつ失ってしまうだろうか」とビクビクしている時間があったら、その幸せをしっかり味わうことの方が「心豊かに生きる」という目的にしっくりくると思いませんか?
質問者からのお礼
お礼コメントが遅くなってすみません。
アドバイスいただいたことを心がけてみたところ、前より気持ちがラクになったように思います。
ご回答ありがとうございました。