何をやっても努力が報われません。
何をやっても努力を誰かに水をかけられ続けて、疲れてしまいました。
家庭環境や人間関係に恵まれず、子供の頃から死にたい気持ちを強く持っており、心身共に他人から異常だと指摘されるほどでした。
親はその状態を恋人と共に嗤うか、人に迷惑をかける障害者死ね等と酷く罵倒されるかでした。至極正論を言っていると主張しており、自分でもよくわからなくなっていました。虐めや恋人からのDVもありました。家族を持ちたい気持ちもありましたが、DVを受けた人間は人としてケチがついているから一生DVされると、友人から言われ、誰かと家族を築くことはもう諦めました。
引きこもりや数回の自殺未遂を経て、死ぬのが怖かったという消極的な理由で、徐々に社会復帰をし、自分のやりたい事で仕事に就けるようになりやっと心も安定が測れはじめました。
そんな中、ご先祖様のお陰で安定し始めたのだから、ご先祖様に感謝しろと言われました。
ブラック企業から転職に成功したりと、確かに強運にも恵まれてきたとは思います。
自分の努力は、辛いことを乗り越えてきたことは、全て私の努力の賜物ではなくて、ご先祖様のお陰か…と。
悪いことが起こるのは私が生きる価値がない人間だからで、良いことが起こるのはご先祖のお陰なのだという結論に、何か努力することが無駄に感じてきました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
欲は無くせないが、小さくしていくことはできるものです。
拝読させていただきました。
努力を仏教では精進ととらえます。
「人間は後ろ向きで歩こうとすると、とても歩きにくいです。だから前を向いてあるくしかないということであります。」
この言葉の中には努力を努力と思わずに自然に身を任せていくこと。そして、過去を振り返りながら生きていくことは、荷物を抱えながら歩いていることであり、過去を背負いながら今を生きることは倍疲れます。
努力をする前に、荷物を下ろしてから努力をしていけば、少し気持ちに余裕ができてきます。また努力の仕方にも工夫をする余裕が生まれてくるものです。
釈迦は「汝よ、水を汲み出したならば、舟は軽やかに進むであろう。」と説いています。
この言葉は、舟は自分自身であり、海路は人生であり、水は煩悩を比喩したものです。
お腹が満腹なときには、何も入らないし何も要らないと思うのが一般的でしょう。一度空腹にすることで、何を食べようか選択肢や、何を体は求めているだろうと見えてきます。このように、努力も過去や克服できなかったり、実りが少ないと感じることには余計な観念が努力を邪魔していることがあります。
人生、疲れないように歩くには他人の評価を気にしないこと。他人と比較しないこと。過去は過ぎ去り捨てられたこと。未来をこれから歩むのに今から変えればすべては変化していきます。過去を指摘する人たちがいるならば、離れる努力から始めることが過去からの脱却ともなり、自分自身の舟を軽やかに進めることもできる方法でもあります。
人生、無意味と感じた経験もいずれ意味あることであったと体感できるときが訪れるものです。
合掌