hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

友を愛しすぎて失う

回答数回答 1
有り難し有り難し 10

たった一人、友達がいてくれたら良いと思い気がついたら相手を好きになってしまっている…。
同性でお互い既婚者でありながら友情と愛情の垣根が無くなり、相手の負担になり自らも友達という仮面が苦しくなり相手から促されカミングアウトしてしまいました。

自分を戒め友としてやり直したい…
しかし、当然友は離れていきます。

人としての愛も不倫ですか?
愛が沸き起こるのを止められますか?
同性を好きになる人間は性犯罪者でしょうか?
人でもなくモンスターなのでしょうか?
人しての誠意の涙さえ恐れられてしまう。

自分に素直に生きることは、私に許されないのでしょうか。
全てに恵まれていながら、たまらなく悔しく寂しいのです。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いずれにせよ超えてはならない一線はどこにでもある

男女関係、人間関係のみならず、信号無視にしたって超えちゃいけないものがある。
それがこの世のルール。ルールというだけです。たとえば腫瘍には悪質なものと良性のものがあるそうで。ただ、腫瘍という「カタチ」になってポッコリと出てきたというだけのものがあるのでしょう。体にもホクロやイボや小さなできものや肌の固くなっているところが「誰にでも」あるはずです。
植物を見ますと木や果実にもそのような腫瘍にも似たものがあらわれている。
身を守る働き。ポリフェノールはそういう所の方が高いそうですが。🍎
私はBOSEであり、僧侶、PRIESTなものですから、定期的に頭をそります。Ω✨
当山はお寺、建物は立派ですが実は檀家さんもお墓も無いビンボー寺でして…。カミソリも百円ショップの安物を使っています。オイオイ…(ノД`)・゜・。安いものは粗悪な商品も多く、おでこを切ってしまいました。傷の治りが悪く、腫瘍化しました。それも弱くなっているわが身を守るために腫瘍になるのでしょう。
簡単な手術だというので取りましたが、また出てきました。
麻酔して切開して治癒しましたが、アタマはまだ痛みます。背中にあるホクロのことなど人は忘れているものですが、よく目につくところにあるものは人は「気にする」のでしょう。それが良質の腫瘍であっても問題がなくとも。よく目にするからこそ、気になる。気にする。
男が男に惚れようが惚れたというだけの腫瘍だと思うことです。
腫瘍を想念に喩えるなら、今日も無数の良性腫瘍を人は脳内に生み出しているわけです。
そこから♂♨♂なおっさんずラブな関係にならなければ心に良性のちんちんが生えたというだけのことです。良質な腫瘍と同じです。一線を越えなければ問題はありません。
一線を越えればあなたもその人も家庭崩壊。いろんな意味で危ない橋を渡ることに。人間は寂しい時や困っている時にやさしいものや良くかかわれる人と接すると脳みそが勘違いを起こすのです。それも身を守るため。好意は好意で人畜無害ですが、家庭を壊すような好意は好意を超えた危険な行為♨ですので深入りしてはいけません。
人は人を所有することはできません。
最上、最良の関係と程よい距離感をキープし続けるということが大事なわけです。
心もDEEPなZONEに猪凸猛進してはいけません。
ブレーキをかけることも相手の家庭を壊さないという「愛」です。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下 覚元 様
お返事をいただけて大変ありがたく思います。後悔や自責の念、消せない思いと今ある幸せ…がんじがらめで苦しんでいましたが丹下様のユーモアに触れて心がほぐれました。
まさしく、彼にとってのルールを破ったのだと感じています。信号無視だったのだと。彼からは人生を変える違反切符を貰いました。彼が夢を追いかけているように、私も挑戦していきます。償い終わる頃、男として胸を張っていられるように。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ