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邪気について

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有り難し有り難し 25

邪気の除ける方法をご教示お願いいたします。

【いつ起こるか】
・悩み相談を受けた次の日
・欲まみれのところへ行く(人が多い神社など)
・邪な心を持っている人
このようなときは、ぐったり疲れて一日寝てしまい、回復ができません。
寝ても寝ても眠く、だるく、体が言うことを聞きません。
どうしたら除ける力が身につくのでしょうか?

【している方法】
・プルパを身につける
・般若心経を聴く
・仏様に拝む
・酒と塩を入れて入浴

よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

リラックス

邪気というか、あなた自身の思考や気分が長時間戦闘態勢になった後にドッと疲れが出るのかもしれません。
まずは、他人への怒りや恐怖を少なくして、「よく見たらこの人にも可愛いとこあるじゃないか」と慈悲の心にスイッチしましょう。
また、般若心経も、ある程度意味を理解すれば恐怖や緊張を打ち払うリラックスのお経と呪文(ぎゃーてーぎゃーてー)だとわかります。
邪気と闘うための呪文として戦闘態勢で唱えるのではなく、執着を手放し妄想雑念を停止してリラックスする呪文として、ぎゃーてーを唱えましょう。
つまり、あなたは自分の身を守ることに疲れている可能性があります。
守るべき「私」は空であり幻である、だから他人からどう思われてもよい、人生は今できることを今できる範囲でやれば合格人生、死ぬまで生きればいいだけだと思いましょう。
たとえば、「大丈夫、あるがまま、お互いさま」と念じてみましょう。(リラックスすることを意識して。)

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

苦手な相手の中にもこちらと同じ仏の働きあることを見出す

仏教を学ぶということは自己を学ぶことであり、同時に人間を学ぶことである。
心理学を学ぶということは心を学ぶことであり、同時に人間を学ぶことである。
この世で学ぶことは全てが学びそのものであり、同時に人間を学ぶことである。

人間を学ぶということは、自分と相手とを隔てないことなのです。
あの人間はなぞだ、あの種の人間は近寄りがたい、ああいう人間は同じ人間とは思えないという気持ちが生ずるにしてもそれは、自分とこの世の人間というものを遠くに置いている学びの姿勢であると思います。だから、謎の人間の謎の心理が永遠に謎であり、生理的嫌悪感のような心理や邪気が生ずる。
たとえば身内にどうしてあの人はあのような性格なのだろう?というような人がいたとしても、それは一族。
同じ人間。
同じ血縁。
さらに広げれば国や生まれや育ちや文化が異なっても理解不能な人たちであっても、実はそれでも同じ人間。
自分とはまるで異質なタイプの人たちがこの世に存在することは現実であっても、その人たちも我々と同じ人間であり、同じ人間として、同じ心理によって今の状況があるわけです。邪気を感じる人間であってもよくよくその人を理解しようとする気持ちがあれば、ああ、なるほど、この人のこのような行動はこのような心理によって生じているものなのか、と理解が進みます。
あなたはそれを邪気と呼ぶかもしれませんが、他方から見ればどうして私に対してこの人は邪気を感じてているのだろう?と、人によっては失礼だなァと憤慨されるかもしれません。つまり、邪気の正体とは、内側から沸き起こるその人に対するこちらの違和感であったり異質な印象を受ける心理である可能性も否定できません。
唾を吐きかけ合うことで挨拶をする民族からすれば、そのような行為は同じ同胞同族として当たり前の行動ですが、我々からすれば「大丈夫なの…?」とコロナ下ですからなおさら異質に感じるものでしょう。
ですが、その人たちにとっては当たり前だったりするのです。
邪気とは実は、こちらの内側のある種の警戒センサーかもしれませんね。
酒や塩は調和するものと調和するものです。
般若心経とは無我・無心の教えです。自我を無くした心=般若波羅蜜であれば、どのような相手であっても同化できるものです。仏を拝むとはその人の仏を拝むことでもあります。
その相手に仏を見出すことができれば邪気は消えます。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ