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たまに誰かに頼りたくなるけど居場所がない

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有り難し有り難し 17

過去に何度か質問させていただいております、現在海外で芸術活動をして5年近くが経過しました。
大変お金のかかるこの世界でアルバイト掛け持ちで全部やってきました。学費までは回らず、借金でやりくりしましたが、成績優秀で学費免除や賞もいただきました。音楽仲間も海外にはいます。
親から生活資金の援助は一切もらっていません。退路がない中、大きな助成金もいただけるまでになり、お陰様で数年海外活動をすることができました。

たくさんの人に応援してもらいましたが、最近30歳になり、ふと周りの女性の友人たちは結婚したり、ほぼパートナーがいる状態です。
よく話を聞くと30歳近くでもまだ親が海外生活にお金を払ってくれている人などが多く、自分みたいな泥臭い生き方をしてきた人は、この高尚な芸術の世界に少ない現実も見えてきました。

彼女らのお金の不安などを聞くと、自分が否定されたような気持ちになることがまだあります。

彼女らは、助けてくれるパートナーや家族がいて、私は全てを自分で死に物狂いで勝ち取ってきたのに、いまだに一人です。

もともと誰かに依存するのは嫌で、そうすると自力で生きていく力が失われてしまうと思います。かといって一人で生きていけるとも思っていないので、困った時には人に話すようにはしています。

しかし結婚やパートナーのおかげでお金の心配もない、滞在の資格もある私の友人に対して、私は自分でやっていかないと、海外で築いたものも全て置いて帰国してなにもない日本にいなければならないかもしれない。
その不安と、なぜ私は頑張っているのに残れない、という気持ちがたまに湧いてきます。

そんな私もたまに誰かに頼りたい時がありますが、安心を手に入れた友人からは「ある意味自業自得」というような空気をたまに感じます。そして「すごいね、応援しているよ」の一言で終わってしまうのです。

ふと思ったのですがもしかしたら、私が自分の人生を歩んでいくことに勇気がなくて、そうした「私を傷つけない」人にやや、依存してしまっている気がしました。
私は彼女たちに執着してはならず、安心を自分で獲得しなければならない身として、いちど彼女たちと距離を置くべきでしょうか。

私は社会では非常に男性的な気がします。なぜ頑張っても誰も居場所をくれないのでしょうか。頑張っても貧乏人は永遠に貧乏、一人は永遠に一人なのでしょうか。

2022年4月17日 4:39

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人間的なつながりの中に「一人」は解消されていくはず

こんにちは。

前々回でも縁があって回答しました。
あなたの今回の質問内容を要約すると、以下のようになると受け取りました。

誰からも「生活資金の援助は一切もらって」いないで「海外で芸術活動」することは、精神的にも経済的にも非常に困難である。「全てを自分で死に物狂いで勝ち取ってきた」一方、「助けてくれるパートナーや家族」からの「援助」がある「彼女たち」は「結婚やパートナーのおかげでお金の心配もない」。「貧乏人は永遠に貧乏、一人は永遠に一人なの」かと思い悩んでいる、こういうことだろうと思います。

私は率直に言って、あなたがとても頑なな人柄だと感じます。

「誰かに依存するのは嫌」、「自力で生きていく力が失われ」るから、そうあなたは言っています。つまり、自分以外の他者との関わりが「生きていく力」を鈍化させる「依存」だ、と。「かといって一人で生きていけ」ないから、「困った時には人に話す」とも。

周囲から見たらあなたはどう見えているでしょうか。
「困った時」だけ頼りにしてくるけど、日頃は「全てを自分で死に物狂いで勝ち取ってきた」と自分だけで生きているかのようである。「助けてくれるパートナーや家族」からの「援助」がある「彼女たち」はいいわね、私は一人で大変なのよという心が透けて見える。「すごいね、応援しているよ」の「一言」は、そういう自分は一人で頑張っていますアピールをしている人に向けられた言葉なのでしょう。

つまり、自分一人の世界で生きているから、当然の帰結としてあなたは「いまだに一人」なのです。「貧乏人は永遠に貧乏、一人は永遠に一人」という運命があるのではありません。自分がどうやって生きるかという業(行為)が、人の人生を変えていくのです。

「頑張っても誰も居場所をくれない」という自己中心の視点ではなく、「居場所」を無くしているのは自分だと気が付くことです。そして、「居場所」は「頑張」るから得られるのではなく、人間の素直な喜怒哀楽を出し、弱さを見せたり、身近なことで笑いあい、共感するところで自ずと形作られていくのです。「頑張」って自分を立派に見せる必要は「居場所」には必要ないのです。

人間的なつながりの中に「一人」は解消されていくはずです。
死活問題としての「芸術活動」と、人間的な素の自分とを一度分けて考え、上記のように行動に移していってください(字数制限)

2022年4月17日 8:11
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有り難し
おきもち

釋 悠水(しゃくゆうすい)
浄土真宗本願寺派報恩寺住職(兵庫県三木市) 本願寺派布教使 元本願寺布...
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質問者からのお礼

釋 悠水さま、
前回に引き続きお言葉をいただき、ありがとうございます。自分でも薄々と感じることが書かれており、納得しながら読ませていただきました。
いつもこう感じているわけではなく、ふと一人になった時にこうした思いを張り巡らせてしまうように感じます。また、文化の異なる海外という場所がら、コミュニティを形成していくことの難しさをより感じているせいもあると思います。
すごい友達が多いというわけではありませんが、ゼロでもありません。人間完全に分かり合えないのもわかっているのであまり共感も求めず淡々としていて、でもごくたまにはそれが欲しい性格です。それがご指摘の通り、良くも悪くも自分の思い通りの人生になっていると思いますが、自分としてはわりと自然な生き方であり、なかなか誤解されがちだとたまに落ち込むことがありました。
自分では完璧主義を求めていなくても、周囲が私をそう形作っているように感じることもあります。。。自分の自然と他人の自然が違うのだと薄々感じています。
"「貧乏人は永遠に貧乏、一人は永遠に一人」という運命があるのではありません。"という言葉が大きな希望です。
焦らず自分の人生のスタイルを生きながら見つけていきたいと思います。ありがとうございます。

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