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偶然装って会うことに困ってます。

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数週間前、朝犬の散歩をしていてある男性に声をかけられました。ちょうど自宅マンションの入り口だったので家は知られています。
それから数回偶然を装ってその人が現れていましたが、今朝会った時に昨日の朝も待っていたけど会えなかったと言われ少し困っています。
ご近所の目もあるし、何より主人のことが好きなので心配かけるようなことはしたくありません。
話しかけられ適当にあしらえばよかったのですが、今のご時世どんな人がいるか分からない恐怖心から普通に対応したのが悪かったのでしょうか・・・
主人に相談しようと思ったのですが、主人自信がちょっとした問題を抱えているのでそれが終わり次第相談しようと思っています。

次会った時、「近所の目もあるので話しかけてもらうのは今日限りにして欲しい」とお願いしようと思うのですが気分を逆なですることになりますか?
後は散歩の時間を大幅に変更しようかとも思っています。

どのようにすればその人に納得してもらえて、待ち伏せみたいなことしなくなりますか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

完全な防衛を。隙を見せない。関わらない。近寄らせない。

(._.)…もし、その話があなたの妄想ではなく、実際に偶然をよそおって狙ってあなたに接触を試みる行為であれば、普通に私が女性の立場だったら…
…キモいですね。
(´-`*)キモイ言うな
春はいろんな意味で危険です。🐶🐕
人間も動物です。
人間の世界でいくらLGBTQを主張しても生物の世界は♂と♀であり、動物・生物です。人間も動物。理性を無くしたら何をしでかすかわかりません。毎日どこかで犯罪は起きています。🌼花粉舞い、ネコがさかり、ウチのニワトリもメンドリが地獄な季節なので小屋を分けてます。🐔💦🐓
春先ですので色々な人がいます。とにかく最悪の事態を避けるべく警戒しましょう。生物の世界は弱肉強食。先程も庭で鶏のエサを食べに来ていたハトがカラスに襲われていました。それが現実。安い性善説よりも防衛。こちらが善意でも相手は別。
家庭をお持ちである以上、警戒・防衛・防犯意識はお高めに。
いざという時のための護身グッズも持ち歩きましょう。
ストーカー被害に対応してくださるところもしらべましょう。
すぐにご主人に相談しましょう。
「今日は来るかもな…」という時に一緒に出掛けてもらいましょう。悪いことをする人はじーーーーっと第三者から見つめられると悪いことはできなくなります。
勘違いレベルが上昇する前にその人の幻想を滅却いたしましょう。
その男性がやっていることはストーカー行為に等しいものですから、定期的に窓の外をこちらの姿が映らないように監視しましょう。
世の中こちらが善意であっても、相手は違います。
こちらが善人・善意の人であっても、相手は何をしでかすかわからないものです。
悪気がなかった人であってもいざという時、人は何をしでかすかわかりません。その結果がロシアVSウクライナ。チャイナVSチベット。チャイナVSウイグルです。
日本ですらいじめで殺されても、加害者が擁護されるようなおかしな世の中。
今日も実際に犯罪や事件は起きているのです。
綺麗ごとはきれいごとを言う人だけの無責任かつ無防備な美談でしかありません。
実際に世の中の犯罪はそれを飛び越えて望まない犯罪が行なわれている以上、警戒・防衛・万全な対策あるのみです。
相手がどんなに純愛な気持ちであっても、あなたは既婚者。他の異性を近寄らせてもいけません。期待させてもいけません。笑顔一つ見せてもいけません。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご丁寧な回答ありがとうございました。なるべく会わないよう心がけます。
ただお坊さまから回答にありました「隙を見せない。関わらない。近寄らせない。」に関しては甘かったと反省しております。
何かあっても怖いしと思いある程度普通に接していました。
それにより今は多少話しかけられやすい状況を作ってしまったので距離を取ります。

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