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周りに左右されて辛いです

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有り難し有り難し 9

こんにちは。
何度かこちらを利用させていただいております。また今回もよろしくお願いいたします。

私は周りの目がとても気になってしまいます。
ここでの過去の質問を自分で読み返しても、ずっと周りのことを気にして悩んできたんだなと感じます。
友人にはお人好しすぎると言われます。
最近、人の相談に乗っていたら最終的に自分が不利益を被ることになった出来事がありました。今回の件はかなり辛く、私も憤りを感じたので段々とその方と距離を置いたのですが…こちらは無視等していないのに、何を思ったのか向こうからあからさまに態度に出されて無視されるようになりました。
そしてまた私は、私が悪かったのだろうか?その方が周りに私のことを悪く広めたらどうしよう…と周りの目が怖くなってしまいました。

正直、人と関わるたびにこうなってしまう自分にもう疲れてしまいました。ストレスでお金を使ってしまったり、自分のプライベートも寝込んでしまって何もできなかったりして辛いです。
何かアドバイスをいただきたいです。よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

喪失感の正体を見抜く ーホントは何も減らないー

失うことをおそれてしまっていませんか?
失うとはなにか?
その心理をもう少し見つめてみましょう。🐄ナウ
それは何かを失うことをおそれているというよりも、失うのではないかということに恐怖しているのです。(おなじやないか)
もっと言えば、失ってもいないのに、どうせ失うに違いないとか、あんなふうになったらどうしようとか、最悪の事態を想定してしまってその思い自体にあなたがあなたを苦しめているということなのです。つまり、喪失する怖さという思いがあなたを苦しめている。自分で自分をいじめている状態なのです。わかるまで何度も読んでみてください。賢い方はそれがわかれば心が自由になり、自分が自分の思いに足を引っ張られても心がフリーズしたり暗い方向に考えなくなるようになります。

周りの目が気になるということも本質は何か。周りの目を気にしているのではないのです。
あの人にこう思われたらどうしよう?自分が下がるのではないか。自分がわるくおもわれるのではないか?と自分を飾るようになる。ありもしないことを考えるようになる。
周りの目が気になるということは「なにをしている」姿でしょうか?
実際にそうでないことをあたかも真実であるかのように誤解・誤認する。
いずれにせよ、人の目が気になるということも自分が何かを失うのではないか?というような喪失感があなたを苦しめているということを感じて取ってみてください。別に喪失感と言わなくてもよいのです。あなたがあなたの思いによってあなたを苦しめていることに目を向けてほしいのです。
つまり、他人に左右されているのではなく、自分がこうなりたくないからいつも決まった行動をとってしまっているというだけなのだということに勇気をもって目を向けてその決まりきったパターン化された行動心理を別次元の方向へ転がせば他人の言葉に左右されることも無くなるのです。なぜならば、自分が自分のなかで勝手に生じた思いによって自爆コイテいる=負のリアクションに毎回振り回されているということなのです。
喪失感の正体を見抜くことです。
それは「何か失われるのではないか?」という自分の妄想が生んだ❝失っていないのに失うかもしれないというダークな思いがあなた自身をフリーズさせている心の毒素❞なのです。
その思いを起こせば起こすだけ何も失わないうちから失われているような感覚が続いていくのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答をいただいてから、自分の中で納得出来るまで何度も読み返させていただきました。
たしかに、周りに左右されているのではなく自分自身の思いに苦しんでいるなということに気付かされました。
まだ何も失ってないのに、失うのではないかと苦しむのは勿体ないと感じます。
これからはその気持ちを心に置いて、自分の気持ちに苦しみそうになった時に思い返したいと思います。こちらの回答も読み返させていただきたいと思います。

本当にありがとうございました。

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