幸せをかみしめることは許されないのか
少しでも「幸せ」を実感すると、しばらくして不幸がやってきます。
例えば「今日も普段通りの日常が過ごせて幸せだ」と思うと、数時間後に家族が病気になったことがあります。
また、いいことが起きた後、転倒して大けがを患ったこともあります。
それ以来、私は「幸せ」や「平和」という言葉を口にするのをやめました。
(口に出した途端、これまで嫌なことが起きる確率が多かったので)
「人間万事塞翁が馬」という言葉があります。その言葉通り、安易に一喜一憂しないよう油断せず過ごしています。
しかし「幸せ」を実感することはそんなにいけないことなのでしょうか。
自分や家族に嬉しいことが起きたとき、心から喜んではいけないのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
むしろしっかり喜んだ方が
あなたが喜んだ…というのが「慢心」という意味ならば、喜ばない方が良いかも知れません。プロポーズされて自分磨きをやめたら振られたとか。
仏教では、「禍福は平等に来る」というより「思い通りにならないことの方が多いです」と考えますので、まぁあなたが喜ぼうが我慢しようが、いずれ禍にはあうのです。
また、あなたの味わう「嬉しさ」は、殆どが一人きりでは達成できなかったことのはず。つまりご縁の上に起きていることであって、嬉しいにはほぼ例外なく「ありがとう」が付いているはずです。
この2つを考えると、「嬉しいなら喜ばねば」と思いませんか?
幸せって何でしょうか?
拝読させて頂きました。
あなたが幸せの後で不幸を感じてしまうことを読ませて頂きました。
あなたがその様にお感じなさるお気持ちもわかる様に感じます。あなたのお気持ちを心よりお察しします。
あなたが毎日を健康に生活して幸せを感じた後に家族が病気になってしまいとても不幸を感じてしまう為に幸せを喜ぶことができないとお感じなさっていらっしゃるのは、知らず知らずのうちに自分自身を守る為に精神的に防衛本能が働いているからではないかと思います。
人間はとても弱いものですから災いや不幸にあったらとても深い傷を受けてしまいます。ですからその傷を少しでも和らげようとすることがあります。その為に幸せであってもあまり喜ばしいとせずに不幸を感じても軽減しようとしているのかとも思います。それはそれで大変なさ中を生きる為のすべかもしれません。そう捉えていくことも一つですからね、人間万事塞翁が馬も未来はどう転んでいくのかわからないということを語っていますでしょうからね。
とはいえちょっと一息ついてみてゆっくりと幸せと不幸せについてあなたなりにお考えなさってみてはいかがでしょうか?
幸せと不幸せは人それぞれに違うことも多いです。
また自分や周りの人達が生きることそして命を全うしていくことをゆっくりと考えてみてもいいのではないでしょうか?その中で幸せって何だろうとお考えなさってみて下さいね。
せっかくの機会ですからあなたなりの幸せについて考えてみる時間になさってみて下さいね。
質問者からのお礼
どのみち嫌なことが起こるのなら、しっかり喜んだ方がいい。
とても参考になりました。嬉しいことがあれば素直に喜ぼうと思います。
ありがとうございました。
幸せについて考えたことがなかったかのように思います。
これを機にじっくり考えてみようと思います。
暖かいお言葉、ありがとうございました。