私は自称「障がい者」が嫌いな障害者です。
いつもお世話になっております。悔しさのやり場がないので、お聞き
いただきたく存じます。
訓練所に通っていて、ニュースを読んでいて、私は気付きました。
自分のなすべき事を考えず、権利ばかりを主張して、変な縄張り意識を
持っている、自分だけが可愛くて仕方のない、自称「障がい者」が
あまりにも多いことに。
周囲を省みず、
「我々は攻撃されている」、「健常者は敵だ」、「社会は敵だ」、
「我々は抵抗せねば」、「お前たちは我々に施すべきだ」
などと、無闇矢鱈とわがままと暴力を振りかざしたがる大馬鹿者が
多いことに。
他山の石だ、人の振り見て我が振り直せ、と思って精進していました
が、ついに限界が訪れました。
確かに、優生保護法、精神病者監護法などの悪しき歴史も、日本
にはあります。しかしこれらは、すでに昔話です。
私もヘルプマークを着けて歩いていますが、連中が宣うような目に
遭ったことは、全くと言っていいほどありません。むしろ、健常者の皆様
は、とても気に掛けてくださいます。
道を譲れば笑顔で会釈してくださいますし、事故で乗っている電車が
止まれば、向かいの席に座った見知らぬ方が、笑顔で目配せしてくれます。
近所の中華屋さんの店長さんはじめ、スタッフさんも、皆さん私を上客と
して接してくださいます。
ちなみに、中華屋さんだけでなく、近所のほとんどの飲食店の皆さん
は私を覚えてくださっています。
連中を見ていると、虫酸が走ります。皆様からの尊いお心を踏み
にじってどぶに捨て、傍若無人に振る舞い、これじゃ足りない、もっと
施せとたかる。
ちなみに、以前どこかのメディアで、努力をしている障害者たちまで
十把一絡げにし、障害者全員を「ゆすりたかり」とお坊様が言い放った
のを見ました。これは、本当に悔しかったです。
しかしこれも、連中のような、わがまま、怠け放題の自称「障がい者」
が、あまりにも多いせいだと思います。
「酔狂は酔わざるを笑う」。連中には、この言葉がよく似合います。
しかし、私は精進します。私自身も認められるため、そして、頑張って
いる、他の障害者たちのために。
「頑張っている障害者もいるんだな」と、より一層皆様から思っていただ
けるために。
発達障害があるが、他の患者が苦手、健常者さんに負担を強いる障害者が許せない、 医師の悪口を言う僧侶が許せない、選挙で体調崩す、医師を顎で使ったり「薬減らせ」とごねる患者に辟易 #薬は悪くない
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
勝手にくくらない
"目に余る人"というのはどう言う括りをしてもいるものです。
日本人とくくっても、若者とくくっても、老人とくくっても、男女でくくっても、目に余る人はいるでしょう。
確かにその人達というのは同じ括りに属する人から見ればとても不愉快で、許せないものに見えるでしょう。
しかし、"くくり"を作ったのは人であり、くくりの中にいる人は全くの他人です。
そしてあなた自身こそが、人の作ったくくりに乗せられて、ほかの障がい者と同一視してしまっていませんか?
あなたの努力はあなた自身のためのものであり、障がい者のためとなるかどうかは他人が決めるのではないでしょうか?
あなたと他の障がい者の方々は本来、別の存在であり、"障がい者だから同じ"わけではないのです。
あなたが言うべきなのは、「一緒にしないでくれ、彼らと私は別だ」と宣言することです。
その上で、恵まれなかった人たちがなぜ"目に余る"行動を取るようになったのか、を考えることができるようになると良いと思いませんか?
質問者からのお礼
【けいじょう 先生】
お返事いただき、ありがとうございます。
はい、堂々と
「あんな連中と一緒にしないでくれ、私はあんなのとは違うんだ」
と言えるよう、日々精進しているつもりです。
なぜ、連中が目に余る行動を取るようになったのか?そうですね…
それを言い出せば、私も劣悪な家庭環境で育ち、親戚もごく一部を除き
ならず者ぞろいで、常に怯えて過ごしてきました。それでも、今は立ち
直りの道を歩んでいます。
努力の道は、誰に対しても平等に開かれているはずです。彼らも、
それに気が付いてほしいと願いたいものですね。