誇りと驕りの境界線は?
先日ふらっと行った東寺のおみくじに
「腹立ちやすい心を抑え驕りを捨てるること」
と書かれていたのですが、そもそも「驕り」とは何なのでしょう?
おみくじにあった通り、私はよく腹を立てます。
腹を立てる場面はハッキリしていて、主に人からバカにされたとき、ナメられていると感じたときです。
私はもともと人とズレているところがあり、人から見ると奇妙な言動に映ることが多いようで、よくバカにされます。
理解者もいるので、できるだけ気にしないように努め、その分勉強を頑張ってきました。
今は専門職で非常勤の掛け持ちをしていますが、片方の職場では高く評価して頂いており、それに対しては本当に感謝しています。
しかしもう片方の職場では「どうせ無理、言っても理解できない」と決めつけられることが多く、それがたまらなく悔しくて許せません。
一人でできることも任せてもらえず、逐一干渉されるのも不満です。
「一人でできると思うので任せて頂きたいのですが、もし困ったことがあったら、そのときはご相談させて頂いていいですか?」
と言ったら、鼻で笑いながら「分かりました」と言われました。
実際一人できちんと仕事をこなしたら「あ、できたんですね」と、また鼻で笑われました。
そういうことが毎回で、正直「バカにしやがって!」と涙が出るほど悔しいです。
でも、バカにされて腹を立てること自体、私の中に「認められて当然だ」という傲慢な気持ちがあるせいなのかな?と思ったり…
誇りを守るために怒ることも大事だと思いますが、そもそも誇りと驕りの違いって何なのでしょう?
考えれば考えるほど分からなくなります。
どなたかご意見頂けないでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自分の大事なものを自分がしっかり守るために、力をつけよう
誇りは、自分を守るためのプライド、尊厳です。私は、誰かに誇示するものではなく、自分の大事なものを自分がしっかり守るために、誇りは必要で大事だと思っています。
驕りは、いい気になって思い上がることです。あなたの職場の人、人を見下し笑うような人は、自分のほうが優れていると驕りの気持ちでいるのでしょう。愚かな人ですよね。
あなたが悔しい気持ちになるのは当然だわ。たとえ、仕事上の立場があろうとも、人をバカにするような人を慕い尊敬など出来ませんよね。そういう姿は、周りには醜く映るでしょう。放っておいても、その人は周りから信頼もされないのです。
怒りの気持ちは、相手に噛みつくような態度ではなく、静かに自分に力をつけるのですよ。見返してやりましょう。越えてやりましょう。そんな人より、何倍も人として成長しましょう。
ファイトです。応援していますよ。
怒りは毒
こんにちは、まめたさん。
「誇りと驕りの境界線」大変興味深いテーマですね。
誇りとは自信であり、驕りとは自惚れだと言い換えたとき、それはまさに紙一重なものだと思います。例えば、自分では自信に思っていることでも、他人から自惚れだと思われることもあるでしょう。
受け取る側によって違ってしまい、これはどうしようもない問題だと私は思います。
まめたさんは自己分析もでき、腹を立てやすいこと、それを昇華させて努力できる人です。
自分を評価してくれる人がいる一方で、そうでない人もいる、これは人それぞれ価値観が違うのだから当然のことです。
ただ怒ることは仏教で三毒の1つに数えられるほどの大煩悩です。怒りを正しく上手にコントロールしてください。そうすれば、毒は転じて、自分を成長させる原動力に変わるはずです。
是非頑張ってください。南無妙法蓮華経。
質問者からのお礼
ご回答頂きありがとうございました。
よくよく内省してみれば、私もどこかに「私をダシにして気分良くなんかさせてやるものか!」という変なプライド(?)があるように思います。その点、私には誇りより驕りのほうが多いのかもしれません。
怒りについても、今のところ表立って相手に噛みついたりはしませんが、心情的にはそれに近い気がします。「静かに自分に力をつける」どころか、まさに「毒」ですよね。
まずは誇りも驕りも気にせずに、自分のことに目を向けるのと、評価してくれる人の期待に応えられるよう頑張ろうと思います。
こうやってご回答頂くと、改めて自分と向き合う良い機会になります。
お二方とも、お忙しい中ありがとうございました。