hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

何をしてもうまくいかない

回答数回答 2
有り難し有り難し 18

ここ最近何をしてもうまくいきません。
今の仕事に不満があり、公務員試験の勉強して受験するも失敗し、趣味であるマラソンの記録向上のために一生懸命練習するも転倒して怪我をするし、つい先程コロナ陽性を頂きました(軽症です)。

自分としては現状良くないと感じているから、努力し頑張っているのになぜ全部裏目に出るのか。泣きたくなります。何がいけないのか?
まとまりがない文章ですが、なにかお言葉をいただければと思います。
よろしくおねがいします。

2022年8月30日 10:59

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

一回で出来たらマグレです

成功を目指す
失敗しないようにする

この二つは一見同じようですが心理的には全く違います
『努力し頑張っているのになぜ全部裏目に出るのか』と書かれておりますが、後者の失敗しないことを目指して行動している場合、思考が減点方式になりやすく、他者から見れば『そんなこと!』というトラブルでも酷く落ち込んでしまうことになります

行動する以上失敗は必ずします
全員合格が保証されているならそれは試験ではありませんし
練習したからこそ怪我のリスクは生まれるものですし
コロナの感染は誰のせいでもありません

その上で大切なのは
トラブルの可能性を減らす
起きたトラブルをどうプラスに考えリカバリーするか
になります
運動の前後にいつもより少しだけ念入りにストレッチをする
怪我をしたらどう対処するのが良いか、何を食べると回復が早まるかを調べてみる
コロナで部屋にいるなら試験のどこで躓いたか見直してみる
など、失敗したからこそ思いつくことはあるはずです

後はしっかり食べて寝ましょう
ストレスには肉と水分と熟睡以上に効果のあるものはありません
なるべく牛の赤身がおすすめです

2022年8月30日 17:52
{{count}}
有り難し
おきもち

曹洞宗正教師です フレンチの料理人でもあります 精進料理の講師もしてます 旅と海と綺麗な景色が好きです

評価を下して自分を損ねてきた自分のマイナス判定に気づく

人間は失敗しても毎秒毎秒全自動更新です。
スポーツ選手のプロは評価なんていちいち気にしていません。
人生のプロも評価なんていちいち気にしていません。
心は評価によって時に落ち込み、時に停滞し、時に迷います。
心をその都度、停滞させないためにも評価をするよりも導き先・向かう先・行くべき先をよく考えて、何かを考えて悩むにしても上手に反省してより良い方向へ進むように心を動かすようにしましょう。

仏道の話でいえば、人生はいわゆる失敗だとか、ミスということはあるようで無いものです。
人生の蹴散らし、滑ってしまうこと、空振り、ミス…、それらはただそのようなことが起こった、あったという損得・プラスマイナス・陰陽・善悪に陥らざる視点を持つことです。
天ぷらを揚げている最中にのどが渇いて水を飲もうとしてコップに水を入れて飲もうとしたらアブラでスベってコップを落として床が濡れてしまったのでそれを拭こうとしてタオルで水を拭きとっていたら天ぷらの油が引火して火がボー!🔥となったけども持っていたタオルで鍋を覆えば火が消えたなんて場合、どれが得でどれが失いでしょうか?評価なんてしている場合じゃないでしょうに。
ジャズの神様マイルス・デイビスとハービー・ハンコックの共演の際にハービーハンコックがミスコードを弾いたときマイルスは「どう」したか。
智慧とか頓智とはまさにこのような活きた歩みなのです。
停滞が無い。活路を見出す。得失が無い。それをそれとしている。
https://www.youtube.com/watch?v=cxAUSvwyrOY
優れたアーティストも現代人のような枠の狭い獲得・失いが無い。

「山水に得失なし。 得失は人心にあり。」夢窓疎石

今耳に響くその音にどこに始まりがあり終わりがあるのか。
どこに損得があり、善悪があるのか。
その小さな裁きを下しているのは自分の心を小さくする要らぬ裁きなのです。

身心は脱落。常に脱落。常に全自動浄化。常に自動更新。
先ほどまで悩んでいたことが一体どこに今あるのか。
一念とは現象。一つの念も今の心。
今というてももうどこにもない。
それを握る人間の愚かしい執着でしかないのです。
自分が自分を狭くする心を自ら知り、その危険性をしり、その思いに支配されなくなる生き方を今、求めずにこれからいつそれをやるのでしょう。仏道や仏教は他人事ではない。

2022年8月30日 17:25
{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

■丹下覚元様
ご回答ありがとうございます。
たしかに自分は、何をするにも自己評価を行いマイナス判定を下してきました。
ストイックとも言えるのかもしれませんが、それでは良くないなと感じました。
動画も拝見致しました。
「ミス」を「想定外」として受け取るという考え方に目からウロコでした。
損得を考えずに行動していきたいと思いました。

■折橋大貴様
ご回答ありがとうございます。
本番で失敗しないために行動・練習していました。
トラブルに対するアクションを考えられるようにしていきたいです。
牛の赤身を食べながら療養に専念します。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ