不妊治療で妊娠したけれど辛い
高度不妊治療で妊娠し、子供を授かりました。子供を授かる前は大変辛く、周りからの言葉にも大変傷つきました。旅行に行けば「遊びたいから子作りしないのだろう」と言われ、人格を否定されるようなことも言われました。子なしは幸せになってはいけないのかと随分悩みました。出産すればきっとこの気持ちは晴れる、悩みはなく幸せになれると考えていました。
しかし、いざ出産を終えると、確かに子どもとの生活は幸せですが、ふとした時に不妊だった頃を思い出してしまいます。
不妊で悩むカップルは10組に1組という多いという印象で報道されることも多いですが、つまりは90%の夫婦はきちんとできるわけで、私は10%の出来損ないだったという気持ちです。
「子どもは授かりもの」とこのサイトでもよく目にします。私は神様仏様に授けてもらえなかったので、病院で高額な課金が必要でした。
治療は痛く苦しいものでした。自殺を考えたこともありました。ですので2人目のための不妊治療をする気力がありません。しかし私の勝手な気持ちで、愛する第一子に兄弟を作るという、より良い環境を提供しないということが苦しいのです。
出産をしたら、不妊の苦しみから解放されると思っていたのに、不妊だった頃を思い出しては苦しみ、さらには第二子ができないという苦しみもあるのです。
この状況/心境から抜け出すためには、どのようにすればよろしいでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
まさに有田憂田、有宅憂宅、です。
お釈迦さまはこの世界は思い通りにならないと説かれました。仏教の基本的な概念のうちの1つが「一切皆苦」、一切はみな苦(思い通りにならない)であるというものです。
たとえば、何かを求め、手に入らないと言って憂え、それが手に入ると今度は維持したり別のものや今と違う状態であることが欲しくなったりして憂える、人生はその繰り返しだと説かれました。
どうすればその悪循環から逃れられるのか? 物事をありのままに見ることによってのみ可能である。ないものを求めて憂えたり手に入った後で憂えるのは、自分の見方で世界を見ているからであり、自分の思い通りにしようと思っているからである。しかし世の中はわたしの思いと関係なく、さまざまな相互関係と相互作用によって成り立っていて、そもそも自分の思い通りにはならない。それを事実として受け容れることが出来れば、その憂いや悩みから解放されることが出来る。
お釈迦さまが説いたのはそういうことです。自分の思い通りには世界はならない。そこから始めるしかないのです。
……というのが仏教的な模範解答なのですが、これではいけないので、以下、蛇足的に付け加えさせてください。
ゆゆんこさんは、周囲の偏見等の影響を受けて本来は不必要なことで自分を追い込み、また不妊の別のカップルに対して結構ひどいことをおっしゃるとともに、辛い思いをして子を為された後もまた、子にはきょうだいがいないといけないという思い込みから、他の一人っ子家庭の人にも結構ひどいことをおっしゃってしまっています。
何て言うのでしょう。ゆゆんこさんの見方ですからそれで良いのですが、ゆゆんこさんもおっしゃっているように「子は授かりもの」です。また、世の中はいろいろな関わりの中で成立しているものであり、神仏に子を授けたり授けなかったりするような力は一切ないです。安心してください。
周囲からの偏見に満ちた言葉はひどくつらく落ち込む要因になりますが、彼らは何も考えずに発してますから受け取らない(受け流せたら最高)。またお子さんが一人っ子のままでもそれはゆゆんこさんの責任ではありません。環境などいろいろな要因が合わさってのことです。思い通りにはならないのですから。少しずつ自分の心や環境を変える努力をするのが良いです。
しかし! 自分の心もやはり思い通りになりません。
それを踏まえてやっていくしかないです。
質問者からのお礼
回答いただきありがとうございました。
改めて自分が書いた文章を見返しますと、感情がたかぶっていた状況での考えというのはまあ酷いものですね。
私が書いたことに対して「結構ひどい」というご意見をいただき、安心しました。いままで不妊について言われたことに対して、黙っていることが多かったのですが、あまりにもひどいと思ったことには抗議したこともありました。
しかし、
「冗談で言ったのに真に受けている」
「結婚した人に子どもについて言うのは当たり前」
「当たり前のことができてないのだから」
など言われ、挙げ句の果てに精神疾患ではないかとまで言われたこともありましたので、自分の価値観や道徳観のようなものが崩壊しかけていました。いくら抗議しても、真に反省し謝罪する人はなく、自分の言い分を正当化しようとする人ばかりでした。ほとんどの人は「悪気はない」と言いました。
悪気がないということは、不妊に対する差別的な意見は普遍的な価値なのだとひどく打ちのめされました。
不妊の私にとって「授かりもの」という言葉は「因果応報」「罰当たり」「日頃の行いが悪い」と言われているのと同じでした。誇らしげに「授かった」と言うのを聞くたびに、それに反して自分は極悪人で、前世も最低な存在であったのではと疑っていました。徳を積むなんてことではカバーしきれないのだろうなと思い始めた頃、人に親切にするのはやめていましたが、人に対する親切を再開しようかと思います。(例えば、以前は、電車内で立っている人がいたら、自分は絶対に座らないというポリシーでした)
お寺の方に「ひとりっ子はお葬式が大変」と聞いたので、それも気になっていました。本業の方がそう言うので、本当に大変なのだと焦っていました。子を授かる前は、葬儀に参列する度に、自分の死後は葬儀どころか、遺体を発見してくれる人がいないので、害虫のエサになり、忌み嫌われながら最後を迎えるのだと思っていたので、葬儀の心配ができるなんて幸せなことですよね。
「有田憂田、有宅憂宅」と言うことに関しては、手に入らないものは手に入れる努力し、気力体力睡眠を削り、手に入れてきましたので、受け入れるにはまだ時間がかかりそうです。
お礼のコメントを書いている途中も、あまりにも稚拙な文章に自分でも呆れてしまいました。このような私に対して貴重なご意見を頂きましてありがとうございます。