自分の為に頑張れません。
タイトルにも記載しましたが、私は自分の為に頑張ることができません。他人の為になら頑張れますが、それは私が優しいからなどではなく、ただ他人に認めてほしかったり、他人に嫌われるのを怖がっているからだと思います。
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私は幼い頃から、よく親や周りの人に「変わっている」と言われていました。他人に迷惑をかけていなければ、変わっていることは悪くないことだと今では思えるのですが、私は数年前頃まで悪いことだと考えていましたし、親自身も私を変わった考えでなく一般的な考えを持った人に育ってほしいと思っていたと思います。
昔は、ただ大人に気に入られて仲良くしていれば人生は何とかなるだろうと本気で思っていましたし、今考えればそんな訳はないと強く思えるのですが、その為になら頑張れました。
親の離婚があったり、友人と呼べるような仲の良い人ができたのも高校生になってからだったということもあり、幼少期は不安定な環境で過ごし人と深く関わる経験もあまりありませんでした。
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私が自分の為に頑張れないのは自分に自信がないからで、自分に自信がないのは自分で決めて自分の力で達成したことがないからだと思います。
ですが、周りのせいにはしたくありませんが、このように他人と関わったり認めてもらう経験があまりなかったというのも少しは自分に自信がない原因になっているのではないかと疑ってしまいます。
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自分に自信をつけたくて頑張りたいのですが、自分の為に頑張って何かを達成したとして、それでもやっぱり私は人から認められることを求めると思います。他人に認められてこそ自分の価値はあるという考えが無意識に自分の心にあるからです。
自分で決めて、自分の力で達成し、自分で自分を認めてあげられようになりたいのですが、どうすればいいのかわかりません。
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このような長文で拙い文を、ここまでお読みいただきありがとうございます。
どうかご回答いただきますよう、お願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自他は二つでない
仏教では、自分と他人という考え方はしません。自他の分け隔てがないという事実に目を向けることがスタートになります。
人のために努力していることは、とてもよいことです。人に認められるかどうかということより、人のために感謝されることをやっていると、何故か自分の気持ちもよくなります。
近所の通路の掃除を進んでやっていたら、間違えなく気持ちがいいでしょ。
誰のためなんで関係ないのです。巡り巡ってぜーんぶ自分のためになっている。
自信なんてものなくてもいいのではないですか。そうやって名前をつけるから、「自信」という「もの」があるように感じる。そんなものは後から自然とついてくる心の様子に過ぎないはなしです。
この借り物の身体を大切にしつつ、周囲の人のために働いていたら、素敵な人生になりそうです。
自分で自分の可能性を広げるの
拝
自分の承認欲求の強さをよく知っている事
それがそう簡単に埋められない事
原因までよく観察されてますね
このくらい言葉に出来る方ならば
おそらく今の問題を解決できると思いますし
現にこうしてしっかり自己分析もできていることは既に自ら正しい道を探してステップを上がっているとも言えます
人の内面や行動は自ら変えようと思った時
初めて変わるものです
変わらないと思っている部分は普通変わりません
だから己の内面が良い方向へ向かう可能性を自らの言葉で否定する行為は賢いとはいえません
あなたは可能性に満ちている
自分で低く評価してしまっているけど
事実は全然そんなことはない
あなたも私もそんなに変わりない
自分で善く変わっていく可能性を広げているかどうかもう一度考えてごらん
人はどれだけだって善くなれる
善くなりたいと思ってればね
合掌
質問者からのお礼
お礼をお伝えするのが遅くなってしまい、大変申し訳ございません。
お二人のご回答を見て、とても救われました。
私は今まで、「自信をつけるにはどうすれば良いか」等、自信をつけることを中心に物事を考えていました。ですが、自信というものは何かを成した後から付いてくるものなのだということに気付くことができました。
ですから、今は色々な事に挑戦して、自分の可能性を潰さない為にも、自分の可能性を探ってみます。その過程で、自信が付くと思います。
人の為にしか努力できないと自分を見失ってしまうのではないかと不安でしたが、情けは人のためならず、因果応報に乗っ取って自分にも返ってくると気付けたおかげで、そんな自分も受け入れることもできました。
これからは、人の為に努力する自分も受け入れつつ、自分の為にも努力できる人になりたいと思います。
改めまして、今回は私の相談にご回答いただき、誠に感謝いたします。ありがとうございました。