『安心』を求める心理
皆様の中に『安心』を求める人間はいらっしゃらないでしょうか?
私は…こういう人ほどろくでもないーっと、思っています。
こういう人ほど自分は全く何もせず自分より力のある人の後ろに隠れて自分以外の人間を否定して、嘲笑するろくでなしが多いです。
『安心』なんて求めるものじゃありません。
『安心』を求めれば求めるほど逆に【不安】が増していく。
なぜなら…『安心』を単に求めてた人間に『安心』を与えたところで自分で
『安心しよう』と決意してこなかった人はその『安心』の本当の意味なんて…わかるわけないですから。
皆さんはそんな人達をどう思いますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
安心という誰もが求めるものを使った言葉遊びでは
これは言葉の難しいところであるとは思いますが…
私なりに読み取ろうとすれば、あなたの言わんとするところは、
『不安に打ち勝って手に入れるのが本物の“安心”であり、
人から与えられるものは違う』
というところでしょうか?
しかし、あなたのお悩みはそんなところにない気がします。
『自分以外の人間を否定して、嘲笑するろくでなし』がお嫌いなのでしょう。
ここに具体的な人間の顔が浮かんでいるような気がします。
もし仮にそうなら、安心云々の話は余計です。
人はそもそも安心を求めるものであり、どういった手段を使うかはバラバラなので、万人に当てはまる批判をすることを避けた方がいいでしょう。
もし仮に具体的な顔が浮かんでいないなら、少し気を付けた方がいいかもしれません。
なぜなら、世の中のほとんどの人間があなたの言う“安心を求める人”だからです。
だから、“自ら安心を勝ち取れる人”がリーダーとして組織を率いるような人間独自の社会を築けています。
人間の社会というものがそういうふうにしてできているのに、『キライだ!』と言い切ってしまえば、とても生きにくくなると思いませんか?
それに、もしあなたが“勝ち取れる”側の人間であるなら、求める人たちに対して優位に生きることができます。
どちらにしろ、憤ることもなければ嘆くことでもない。
“勝ち取れる人間でラッキー”くらいの認識で問題ないのではないでしょうか。
安心したいです
私は安心したいです。
もちろん、生きている限り苦しみ(解決すべき問題)は無くならず、苦しみへの対処(毎日の宿題)も無くなりません。
ただ、苦しみ(宿題)の形が変わっていくだけ。
これを「一切皆苦」とか「一切行苦」と言います。
お釈迦様が説いた安心は、「苦しみ(宿題)が無くならないのが普通だ」と受け入れることから始まるのかもしれません。
心配は尽きないけど、「心配が残ったままでも人生はOKなんだ」と安心したいものです。
息を吸えば、次は吐きたいという苦しみが生じる。
で、吐いたらまた吸いたいという苦しみが生じる。
呼吸を止めても平気な時間はせいぜい1分間。
その1分間だけしか「安心」が無いと思うと、そんなわずかな、「視野の狭い安心」を求めて新たな悩みが生じますね。
吸ったら吐けばよい、吐いたら吸えばよい、呼吸が必要だという苦しみ(宿題)は無くならないが、それはそれで良いじゃないかという、「視野の広い安心」に気付いたとき、少しは平安で気楽な人生になりますね。
質問者からのお礼
ありがたいお言葉、ありがとうございます。