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人を傷つけてしまった人間のこれからについて

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先日は、たくさんの御回答ありがとうございました。しかし、やはり何かひっかかってしまい、これからどうすればいいのかわからず日々を過ごしています。
先日、質問させていただいた内容と少しかぶってしまうのですが、
私は今17歳、高校二年生です。私は高校に入学するまでに、多くの人に迷惑をかけてしまいました。暴力や物を隠すなどの直接的なことは一切していませんが、あだ名をつけて本人の後ろで数人とクスクスするという最低で卑怯極まりない陰湿ないじめをしてしまい、また部活の後輩に冷たく当たってしまったり、嘘をついて保身をしたりなど、本当に最悪な人間でした。

私は本当に自分勝手で自己中心的、醜い人間でした。気付くのが本当に遅すぎました。
私は、高校に入学してからほとんどの人に謝りました。本心はわかりませんが、私の謝罪を受け入れてくれました。いっしょになって人をからかっていた悪友は、罪悪感など一切抱いてないそうですが、私は謝った後、長い間罪悪感で悩み、自殺一歩手前までいってしまいました。さらにあろうことか私は復讐や自業自得を恐れ、それにも苦しみました。本当に最悪で下劣で臆病な人間です。
そこで、質問です。恥ずかしながら、私は世界中を旅して宗教や文化を研究し本を書くという夢を抱いています。しかし、私は夢をかなえるために勉学をする資格はあるでしょうか。生きる資格はあるでしょうか。そして、心が強い人間になる資格はあるでしょうか。
長文になってしまい誠に申し訳ありません。またこの質問自体、少し自己中心的な文章となってしまいました。厳しいお叱りを真摯に受け止める覚悟はできています。どうか御回答よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

実力こそが最上の資格

資格なんてものは人からもらうものじゃありません。
自分が実際にその力を身につければよいのです。
詫びるべきは詫びたのならば、今後その方々には最上の敬意を表すのみにして、いたずらに自分を傷つけないことです。
これからは自分を生きてください。
人を傷つけ、人の痛みが分かったのなら、もうそれだけはしないことです。
あなたが行った行為が、他者に対する攻撃行為であったのならば、 
今後は、他者に対する、攻撃とは反対の事をすることです。
配慮や、親切心、ケアや、サポート、とげ抜き、治療、癒し、愛情、尽力、布施行為、利行、やさしい言葉、笑顔などを振り撒くことです。
毎日、行うことです。自分に無理なく行うことです。
心は正直です。悪いことをすれば、心も苦しく、悪い方向へ向かいます
よい活動、誰かのお役に立てる行為をすることで心も良い方向に向かうことでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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