hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

さっさと死んでしまいたい

回答数回答 1
有り難し有り難し 16

過去と同様の質問になるのですが、やはりすべてにおいて何一つ状況がよくならず、生きてるのが嫌になりました。

もう今更やり直せる見込みなんてないのに生きている意味なんてあるでしょうか?

今は30代半ばと何を始めるにしてももう若くない域ですし、仕事や人間関係全てに失敗し、人が成功してる傍ら、低収入で独り身であり、人に勝てる地位もない以上、今更大きく成功して成功者や社会を見下し返してやることも二度とできないと思うと、こんなカスみたいな人生死んで終わらせてやろうかと思っております。

今更資格を取ろうと収入が上がるわけでもなく、色々と活動したところで良縁に巡り合うことなんて無理に決まってます

今思えば、努力しても何一つ報われないのは自明でしたし、今更やり直すことなんか無理と分かったのなら、さっさと死んで人の邪魔にならないようこの世から消えてしまえばいいのですよね?

2023年7月4日 16:04

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

死にたいと信号をはっしているその行動の本質を知ろう

色々とお辛いことがおありだったのでしょうが、まず冷静に。
ご自分でご自分の発せられた言葉をご覧ください。
そして、顧みてください。
そして、自己分析を試みてみましょう。
俺、何やってんだ?と。
1すべてにおいて何一つ~生きてるのが嫌になりました。
2生きている意味なんてあるでしょうか?
3もう若くない
4仕事や人間関係全てに失敗し、低収入で独り身、人に勝てる地位もない
5こんなカスみたいな人生死んで終わらせてやろうかと思っております。
6良縁に巡り合うことなんて無理に決まってます
7今更やり直すことなんか無理
8さっさと死んで~消えてしまえばいい
とても否定的で自己ディスりばかり。
そういう発言こそが自分で自分をいじめている真犯人。
そういう脳内マイナス発言ばかりをされているということです。
そういう自分をいじめ、痛めつけ、苦しめる言葉を沢山発してしまう心理にあるということなのです。
人間は口に出す言葉、思ったこと、行動することの内容によってその心が決まる。その心が変わるものでしょう。
だから、あなたが死にたい死にたい口にしてしまう、思ってしまう、表してしまうのも「そういうことをやっている」というだけなのだ!と見つめて見抜いてみるとよいでしょう。
あなたは死にたい死にたいと思っているがそうではない!ということなのですよ。
そういう言葉を発しやすくなっている、そういう心理に追い込まれているだけ!なのではないでしょうか?
私のもとにとあるYOUTUBERさんが来られて死にたい×∞と連日来られました。参禅会にも来られるようになり、私なりにですがこうしたらよいですよ、こうされるとよいですよという助言をさせていただきました。現在は死を選択することをやめて元気にYOUTUBEの発信活動を続けておられます。
私も死にたいと思ったことは何度もあります。今はそんなことを思うこともありません。むしろそういう心理経験が役に立ちました。「ああ、人間は追いつめられると死にたくもなるもんなのだなぁ」と人間のサガとして知りました。
だから死にたいと思っても大丈夫なのです。
そのぐらい追いつめられているだけ。生きる事に用がないならば死ぬということすら用がなくなるということがある。
そもそも死は自分で選ばずとも世界中の人々が100%死ねます。死ねるというくらいなら何でもやれるのです。発菩提心。奮起。

2023年7月4日 20:59
{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

この後、精神疾患かもしれないので、しっかり治療しろと言われたので、生きられるよう病院に通いつめます

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ