天部の神様と死について
こんにちは。表題の件について質問させて下さい。
忌中には、天部の神様を祀ってあるお寺に参ってはいけないという話を聞きました。
理由は「死は穢れで、特に聖天さんなんかは穢れを嫌うから」「天部の神様は人間に近いから、死を思い出させることで荒れ狂ってしまうから」「本当は神様はそんなこと気にしないんだけど、あなたが悲しいときに無理してお参りしなくていいよ、という意味だ」など、お坊さんによって様々なようです。
私も最近祖母を亡くしました。
祖母とは生前不仲でしたが、遺体を見ていると「生まれて生きて死ぬとは本当に大仕事で、この人はそれをやってのけたんだな。お疲れ様」と素直に見送る気持ちになれました。
死ぬのは怖いけど、それは死に際しての苦痛への恐怖が主であって、死自体はどんな生き物にも訪れるものですし、決して穢れではないと思うのです。
肉体が腐ることだって、微生物に分解され、本来なら動物や植物の糧になり、土に還るという尊い過程です。
何なら生きることより尊いと思うし、衛生管理のため仕方ないとはいえ、死んでまで化石燃料バンバン使って骨にして何の役にも立たない壺に収めて保管して、アホらし、とすら思いました。
そう考えると、「死は穢れだから」とか「天部の神様が死を恐れるから」という理由は、個人的にはあまりしっくり来ません。
人によって死への解釈や意見は違うものでしょうが、実際のところ、天部の神様にとって人間の死とはどういう扱いなのでしょうか?
どうして忌中に参ってはいけないのでしょう?
現役のお坊さんの意見をお聞きしたいです。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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日本古来はケガレ思想
インド由来(仏教由来)の天部の神様はどうかわかりませんが、日本の神様については、ケガレ思想の影響があると思います。
死や血を汚いものだと嫌う考えです。
たとえば、生理(血)のある女性が相撲の土俵に上がれないなども、ケガレ思想の延長ではないのでしょうか。
死体や血から感染症などが広がる可能性があり、医学的知識が無かった昔の人にとっては、ケガレを嫌うというのはある意味理にかなっていたのかもしれませんね。
たとえば身内が死んだ理由が感染症だったら、菌やウイルスを保有している可能性がある遺族があちこち出かけない方が良いですよね。
ただ、保健知識のある現代においては、ただ闇雲にケガレを恐れるのは現実的ではありません。
また、仏教のお坊さんが葬儀に関わるようになったのは、仏教にはケガレ思想がなかったというのも大きいでしょうね。
話が脱線しましたが、実際には、お参りしたい神社やお寺に直接問い合わせて確認するのが無難でしょうね。
追記
日本古来の神様は、荒ぶる神、祟る神という印象がありました。
つまり、人々は神様が暴れないようにご機嫌をとるのです。
たとえば、反逆者や罪人も強いパワーがあると死後に神様になると考えられ、生前が悪人だったからなおさら、神様になって暴れられたらヤバイので、神様のご機嫌を損ねないようにお世話するのです。
神様が嫌がるかもしれないと過度に忖度するのが日本人の感覚なのかもしれませんね。
質問者からのお礼
願誉浄史さま
ご回答いただき、ありがとうございます。
拝読して、ふと「人の死に触れることにより、いずれ自分も死ぬという恐怖や不安が感染することも、また穢れの一種なのかな」と思いました。ひょっとしたら、そちらのほうが病原菌よりも厄介な感染症かもしれません。
とりあえず神様に忖度して、四十九日が明けるまでは神社や天部の神様がいらっしゃるお寺は避けるつもりです。
仏教は考えれば考えるほど深みが出て面白い学問ですね。お付き合い頂き、ありがとうございました。