社会不適合者の生き方
今自身の存在意義について悩んでいます。
背景を記載致します。私はASDという発達障害を患っていることを社会人になって初めてしました。これは先天的なものであり、不治です。
学生時代から社会不適合や問題児として扱われてました。しかし、それも一つの味だといじられキャラとして何とか楽しく過ごせて来ました。また、人なりになれない部分ばかりですが、一部は無茶して何とかして来ました。
しかし、社会人になるとそうはいきません。普通の人が出来ることにやはり数倍苦労します。ミスばかりで他人に迷惑をかけます。無茶をすると逆に会社として困る存在になります。
学生時代からぼんやり思っており、発達障害とわかってはっきりしましたが、このような発達障害で何の取り柄もなく、人の数倍労力をかけないと人並みにすらなれない人間に何の意味があるのだろうと自己嫌悪に堕ちる日々です。
この先は生きていても誰の役にも立てず迷惑ばかりかける存在になると思っています。だからこそ、命を粗末にすることは悪いことと思いつつ、早死にしたいという気持ちがあります。苦しむために生まれて来たとさえ思います。
その反面、健常者と同じように生きたいという欲深い気持ちもあります。
難しい質問ではありますが、どんな心持ちで生きれば、この苦しい罰のような人生を乗り越えられるでしょうか?どうやって自身の存在を受け入れればいいでしょうか?
長年の悩みです。アドバイスをいただければ幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
欲はあっていい。
相談ありがとうございます。
私は、「健常者と同じように生きたいという欲深い気持ち」を持っていいと思います。そんな欲のある自分を否定する必要はありません。
あなたがあなたらしく生きることにおいて、その人がその人らしく生きることにおいて、あなたが比較する健常者という部類の人もあなたも、同じです。
自分らしく生きるかどうかにおいて、みんな同じなのだと私は思います。
他人と比較して数倍時間がかかることがあっても、自分らしく生きているのであればその人は人生をしっかり生きていることになります。
逆に他人よりなんでも早くこなせるとしても、自分らしく生きていないのであれば、その人は苦しいとか辛いとか寂しいとかの人生を生きていることになります。
あなたが自分らしく生きること、それを見つけることを意識していきましょう。他人と比較することはありません。時間がかかることがあるということは、その時間を味わっていることになりますし、ゆったりと物事を眺めることだってできます。他人と比較してしまうならば、自分と他人の傍観者として、いろんな思いをはせることが出来ます。
もし自分の時間をゆったりとマイペースで楽しめるとしたら、あなたは何に集中したい?こんな思いを持つことだってできます。
その楽しんでいる時間は、他人に迷惑をかけていない時間ですし、自分には何らかの役に立っているでしょう。
自分らしい選択肢はいくらでもあるし、それに向かっていいということだと思いますし、そして、他人を頼るときは他人を頼っていいということも思ってみてください。
参考にしてください。
一礼
質問者からのお礼
ありがたいお言葉ありがとうございます。今考えると職場が比較的ハイペースな場所になっています。そのため、ゆっくり考えることが出来る職種に身を置くことが自身には必要な気がして来ました。それを見つけるのは並じゃないかも知れませんが、模索してみます。